“THE 昭和の下町”で育った少年時代:挑戦者たちの履歴書(74)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回から、ジュニパーネットワークス社長の細井洋一氏を取り上げている。今回、初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
ジュニパーネットワークスの代表取締役社長を務める細井洋一氏に話を聞くため、同社のオフィスを訪ねた。
西新宿、都庁のすぐそばにそびえる高層ビルの35階。会議室の窓からは、東京北東部のランドスケープが一望できる。左手には、新宿西口の高層ビル群が間近にそびえ、その向こうには池袋サンシャイン60ビルが、まるで何かの魔法に掛かって巨大化したタバコの箱のように「ストン」と立っている。サンシャイン60はその名の通り60階建て、にもかかわらずここから眺めていると、まるで上から見下ろしているかのような錯覚に陥る。
そのはるか向こうには、建設途上の東京スカイツリー(新東京タワー)が霞掛かって見える。そのあまりの高さのために、はるか手前にあるビル群との遠近感を一瞬失いそうになる。
ふと、奇妙な既視感にとらわれる。「どこかで見た風景だな……」。その直後、それはある面では当たっていて、別の面では勘違いであることに気付く。筆者は4年ほど前、同じ高層ビルの別棟の、ちょうど同じ階のオフィスに半年ほど勤務していたことがあるのだ。あのころも確か、会議室の窓の外には都内のランドスケープが見事に開けていたが、方角は真逆だった。確か、三軒茶屋のキャロットタワーが見えていたように記憶している。
そして、そのときに勤めていた会社の社長を務めていたのが何を隠そう、細井氏だったのだ。当時、筆者は外資系の零細ベンダに勤務していたのだが、米国本社が買収され、日本法人(正確には総代理店)もオフィスを合併するということで、同僚たちとともにこの高層ビルに引っ越してきたのだ。そんなわれわれを歓待し、何かというと気遣ってくれたのが細井氏だった。
わけあってほんの3カ月間ほどしか同じ会社で働く機会がなかったため、恐らく細井氏は筆者のことを覚えてはいまい。しかし、こうした形で再会することになるとは、つくづく不思議な巡り合わせだなと思った。「あのころ、会議室の窓からはキャロットタワー以外に、何が見えていたのだろう……」。そんなことをぼんやり考えているうちに、細井氏が現れた。
かつてごく短期間ではあったが、お世話になった礼を簡単に述べると、同氏は柔和な笑顔で「ああ、そうだったねえ、あのころかあ……」と、ほんの一瞬だけ過去の思い出を振り返るような表情を見せたような気がした……。が、これは筆者の感慨を勝手に細井氏に反映させた錯覚だったのかもしれない。
日焼けした肌に、精力的な口調。経営者として生き馬の目を抜くIT業界を生き抜いてきた人物らしい、精悍な印象を与えると同時に、とても柔和で温かい印象も溶け合っている。そんな印象を筆者は受けた。かつて4年前に初めて出会ったときには、もっとエネルギッシュな印象が全面に出ていたように思う。後述することになるが、ここ直近の4年間は、同氏にとってはさまざまな運命のいたずらに翻弄された期間だったようだ。その間の経験が、同氏の印象を和らげることになったのだろうか。
その前に、まずは同氏の生い立ちを順を追って辿ってみよう。細井洋一氏は昭和29年(1954年)7月、江東区永代橋の病院で産まれた。生後3年間くらいは、東工大のある大岡山(父親の実家が洗足だったため)に住んでおり、その後江東区の深川へ移った。実家は、当時としては非常に珍しい家族構成をとっていたという。
「母方の祖母がお産婆の資格を持っていて、産婦人科の病院を開業していていたんです。その祖母の下で育ったお袋も仕事志向が強くて、知人と貿易会社を経営したりしていて、今で言うところのキャリアウーマンの走りでしたね。親父はNHKに勤めていたんですけど、産婦人科の2階にある祖母の家に2世帯で同居していて、いわば『初代マスオさん』といったところでしたね!」
細井氏が通っていた小学校は、その家の目の前にある江東区立臨海小学校。家のすぐ前が学校だったので、遅刻もなければ忘れ物もなし。
「『おーい、ばあちゃん! 物差し忘れたから持ってきて!』と学校の窓から叫ぶと、すぐ持って来てもらえる。それぐらい近かった」
そんな古き良き昭和の下町で生まれ育った細井氏。一体、どのような少年時代を過ごしたのだろうか?
この続きは、1月19日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 通勤前後に水泳インストラクターをこなす超人
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- 不純な動機で選んだ就職先
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