乗り鉄で“一筆乗車”にハマった幼少時代:挑戦者たちの履歴書(98)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回からは、さくらインターネット社長の田中邦裕氏を取り上げている。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
さくらインターネットの代表取締役社長、田中邦裕氏は1978年1月14日、大阪府の大東市で生まれた。
「母親のお兄さんが大阪府警の警察官だった縁で、大阪の警察病院で生まれたんです。でも、生まれてすぐ家族で奈良に引っ越したので、大阪での思い出はほとんどないんですよね」
終始にこやかな表情を崩さず、ゆったりとしたテンポの関西弁で、自らの半生について語り始める田中氏。多くの人が想像するであろう、「若干33歳にして業界のリーディングカンパニーを率いる、気鋭の若手実業家」というエッジの立った印象は、ほとんどといってよいほど受けない。むしろ、その真逆と言ってもいい。温和で繊細、一言で表現するとしたら「ふんわり」という形容詞がマッチするだろうか。
大阪で生まれて間もなく移り住んだ奈良県大和郡山市で、田中少年は自然に囲まれてすくすくと育った。
「家は住宅街の隅っこにあったので、裏手にはもう田んぼが一面に広がっていて、本当にのどかな環境でした。遊びと言えば、森の中で友達みんなと秘密基地を作ったり、ちょっとした洞窟を掘ってみたり、自転車で遠くに出掛けてみたり。ごくごく普通の子どもがやるような遊びばかりでした。強いて言えば、“冒険”や“探検”ごっこが好きでしたかね」
外で元気に遊び回る健康優良児。とはいえ、いわゆる典型的な「わんぱく坊主」という子どもでもなかったようだ。田中氏が小学生時代を過ごした1980年代は、ファミコンブームの真っ只中。子どもたちが皆、スーパーマリオやファイナルファンタジーに夢中になっていたこの時代、田中家にはファミコンがなかった。「だから、外で遊ぶほかなかったんですよ!」そう笑いながら、田中氏は話す。
「家にファミコンがなかったとは言っても、別に親の教育方針が厳しかったわけでもなく、たまたまなかったというだけなんです。お小遣いも少なかったけど、両親にはやりたいことをやらせてもらって、のんびり育ったので、今ではとても感謝してますね」
同氏の柔和なキャラクターは、幼少時のこうした環境によって育まれたものなのかもしれない。
また当時、田中少年が冒険ごっこ以外に熱中したのが、鉄道だ。それも、今で言うところの「乗り鉄」。電車に乗って遠いところに行くのが好きだったという。
「“一筆乗車”といって、初乗り運賃で地元の駅から大阪、京都を3時間ぐらいかけてぐるりと回って帰って来るんです。同じく鉄道好きの友達と皆でわいわい言いながら。楽しかったですね〜」
また、乗り鉄だけではなく、鉄道模型にもはまった。当時、両親に買ってもらったNゲージのベーシックセットは当時の大切な宝物で、今でも手元に置いてあるという。
「1万円ちょっとぐらいのものでしたが、子どもにとっての1万円は、大人にとっての100万円ぐらいの価値がありましたからね。それこそもう、宝物ですよ!」
友達同士でNゲージのレールをそれぞれ持ち寄り、互いに接続して車両を走らせて遊んだ。こうした鉄道の趣味は、大人になった今でも実は続いているという。
「僕に鉄道について語らせると、長いですよ! 鉄道模型も、大人買いですからね。子どものころには高嶺の花だった1万円の6両編成車両も、今は15両編成までありますから。ほら、あれを見てください」
そう言って田中氏は、窓の外を指差す。
「ほら、ちょうど今あそこを通過している車両、あれは15両編成じゃないですか。ステンレスにオレンジと緑のラインが入った、湘南新宿ラインですね。あれは確か、10両と5両がつながって15両になっていて……」
確かに、鉄道について語り出すと、しばらくは止まりそうにない勢いだ。
「学生時代は電子制御を学んでいたので、鉄道模型のマイコンプログラミングもやりました。鉄道模型では、レールに電気を流して車両を制御するためのプロトコルを流すんですが、そのプログラムを自作したんです」
恥ずかしながら筆者は、鉄道模型がそんな仕組みになっているとはついぞ知らなかった……。田中氏の子ども時代からの趣味のおかげで、思わぬトリビアを手に入れることができた。
この続きは、4月6日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
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- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
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