関西と関東の文化の違いにがくぜんとする:挑戦者たちの履歴書(101)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、田中氏の中学校入学までを取り上げた。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
奈良県と兵庫県で幼少・少年時代を過ごしてきた田中氏が、父親の転勤に伴い横浜に引っ越してきたのが中学3年生のとき。関西で生まれ育った田中氏は、ここで初めて関東の文化圏に接する。中学3年生といえば多感な時期。数々のカルチャーショックを味わったという。
「まずは、言葉が通じないということに、とてもカルチャーショックを受けたことを覚えていますねえ」
田中少年が横浜の中学校に「関西からの転校生」として転入してきたのは、1993年。今でこそ、関西弁をしゃべるタレントが連日テレビに登場し、関東でも関西弁はすっかり市民権を得ているが、1993年当事はまだ関西弁をしゃべる人間は、関東では奇異の目で見られたものだ。
「ちょうど同じ時期に、湘南から転校してきた生徒がいたんですけど、彼に『君は、田中君っていうんだ』と話し掛けられて、もう『えっ?!』とびっくりしてしまって! そのころの僕の感覚では、『おー、お前、田中っていうんや!』という関西弁のノリを期待してましたから……。まるでテレビから飛び出してきたような彼のしゃべり方に、えらいカルチャーギャップを感じましたね!」
それでも幸いなことに、気の良い友人に恵まれ、すぐに周囲と打ち解けることができた田中少年だったが、それでも関西と関東との風習の違いには戸惑うことが多かったと言う。
「家が学校から近かったので、友達が頻繁に遊びに来たんですけど、そのときオカンがよくたこ焼きを出してくれたんですね。そうすると友達は皆、『へー、関西では本当にたこ焼きを食べるんだ!?』とびっくりするんですよ。こっちにしてみれば、ごく当たり前のことなんですけどね」
こうした関西と関東の文化の違いには、今でも戸惑うことがあると田中氏は言う。
「カレーの具には何を入れます? 関東では豚肉が多いですよね。でも、関西では基本的に牛肉なんですよ。あとは、さばの煮付け。関東では味噌煮が多いですけど、関西は基本的に醤油で煮付けるんです。あとは……」
関西の文化について説明する田中氏の口調は、心なしか関西弁のニュアンスが強くなっているようにも聞こえる。それまでは、自身の母親のことを「母親」と呼んでいたのも、いつの間にか「オカン」に変わっている。それにも増して、喋り全体のテンポやリズム感、そして折々に混ぜる冗談が、いかにも関西人っぽく聞こえる。当初はのんびりとした口調が印象深い田中氏だったが、やはり同氏の中には関西の「しゃべくり文化」のDNAがしっかりと組み込まれているようだ。
ところで、横浜の中学校ではどのような学園生活を送っていたのだろうか? 大好きだった電子工作は、転校した後も続けていたのだろうか?
「横浜の中学校では周りに電子工作が好きな生徒がいなかったんですけど、科学部に入ってアマチュア無線をやってました。そのときに無線の資格も取りましたが、今でもこれは僕が持っている唯一の国家資格ですね。あと、文化祭のクラスの出し物でプラネタリウムをやろうということで、僕がLED部品を買ってきたり、制御システムを作ったりしたんですが、ものすごく良いものが出来て、今でもとても良い思い出として残っています」
しかし中学3年生といえば、進学先について考えなくてはいけない時期でもある。田中氏は大好きだったモノ作りの道に進むべく、また親をはじめ、周囲の人々の勧めもあり、高専(高等専門学校)への進学を志す。ちなみに高専は、理数系の受験科目の難易度が極めて高いことで知られている。しかし、田中氏にとってはこれは問題にならなかったという。
「理数系の科目はもともと大得意で、学校内でもいつも席次が一桁でしたね。高専の受験でも、ほぼ全ての問題を解けた自信がありました。でも文系科目は苦手で、学校の成績も真ん中以下のことが多かったですね。さらに体育となるとまったくダメで、10段階評価の中の“1”を取ったこともありました。なので、成績表は1から10までのフルラインアップ! ただ、横浜は全国的に学力レベルが高い地域だったので、そこで揉まれて勉強したことは、高専を受験する上ではとても良かったですね。その前に住んでいた丹波篠山でのんびりやっていたら、きっと受からなかったと思います」
この続きは、4月13日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
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