“三股”で多忙を極めた5年間:挑戦者たちの履歴書(103)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、田中氏が高専に入学するまでを取り上げた。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1993年、舞鶴高専(国立舞鶴工業高等専門学校)の電子工学科に入学した田中氏。ここで過ごした5年間、同氏は3つのものに熱中した。
1つ目は、吹奏楽部。実は同氏は中学時代も吹奏楽部に所属している。担当パートはトロンボーン。そこで、舞鶴高専でも吹奏楽部に入部し、トロンボーンの演奏に熱中する。さらに、4年生と5年生のときには指揮者も務めたというから、相当まじめに打ち込んでいたに違いない。
2つ目が、高専ロボコン(全国高等専門学校ロボットコンテスト)の活動だ。電子工作好きが高じて高専に入学した田中氏だけに、ロボコンへの熱の入れようは相当なものだった。もともとは、入学直後に気の合う仲間たちと一緒にラジオ放送機器を自作して、校内ラジオ放送を始めたのがきっかけだったという。その仲間たちと2年生のときに、ロボコンのためのサークル「電子制御研究会」を設立した。
「高専ロボコンには1校から2チームが参加できるんですが、既に機械工学科から2チームが参加していたので、そのうちの1枠をゆずってもらって自分たちでチームを作りました。4年間みっちりやって、全国大会まで行きましたよ。その甲斐あってか、今では舞鶴高専はすっかり強豪チームになっていて、誇らしいですね」
そして3つ目が、PCだ。1年生の後半から学校の授業でPCを使ったCADの実習が始まり、そこで初めて本格的なPCに触れた田中氏は、「これは面白い!」。あっという間に夢中になったという。まずは、中学時代に少しかじったことがあるBASICで、プログラムを書いてみた。しかしほどなくして、UNIXとC言語に出会う。
「舞鶴高専では本当に教官に恵まれて、特に町田先生と仲川先生という2人の教官には、実に多くのことを教えてもらいました。その仲川先生に、『いつまでもBASICなんかやってたら腐るぞ! これからはC言語や!』と言われて、そこからC言語の勉強を始めたんです」
学内のコンピュータ環境にも恵まれていた。PCは全てネットワークにつながれ、一台一台にIPアドレスが割り振られていた。さらにそこから「NFS(Network File System)プロトコル」でUNIXワークステーションのディスク領域をマウントし、ユーザーごとの環境を利用する。今となってはごく当たり前のことだが、1993年当時としては相当進んだ環境だったと言えよう。
「町田先生からはUNIXとTCP/IPの基礎、さらにはインターネットの存在も教えてもらいました。そこで『ネットワークって何だろう? TCP/IPって何だろう?』と、知的好奇心が湧いてきたんです」
当時のPCマニアの王道といえば、何と言ってもゲームのプログラミングだ。しかし田中氏は、舞鶴高専に備えられていた当時最先端のコンピュータ環境とネットワーク環境を駆使して、当初からネットワークプログラミングの道に進んでいった。高専の1年生、若干15歳のときに早くもC言語でソケットプログラミングを行っていたという。
さらに2年生のときには、これも当時出てきたばかりの、PC/AT互換機やLinuxのことを教官から教わる。
「『もう、PC-98やSUNワークステーションの時代ではない』と教えられました。今考えても、当時お世話になった教官の方々の先見性は、非常に高かったと思います。こうした教官方と出会うことができたのは、本当に幸運でしたね」
ちなみに、当時の田中氏の生活パターンはこうだ。
午前中の授業が終わるとCADの実習室に直行し、昼休み中ずっとPCに向かう。その後、午後の授業が終わると、まずは吹奏楽部の練習を夜までみっちり行う。それが終わり、夕食をとると、今度はロボコンの活動だ。そしてその合間を縫って、またPCに向かう。毎晩、夜中の1時〜2時までPCをいじくり回していたという。そんな超多忙なスケジュールが毎日続いた。
「いやあ、充実した日々でしたね! ひょっとしたら、今より忙しかったかもしれません。でもそのおかげで、勉強はすっかりおろそかになってしまって、1年生のときはクラスで席次が一桁だった成績も、4年生、5年生のころにはもう落第寸前でした!」
この続きは、4月18日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
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