マニアにターゲットを絞った戦略が功を奏す:挑戦者たちの履歴書(106)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、田中氏がさくらインターネットを立ち上げるまでを取り上げた。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1996年12月、舞鶴高専に在学中の若干18歳で、個人事業としてさくらインターネットを立ち上げた田中氏。当時は、個人向けのホスティングサービスなど、まだほとんど存在していなかった時代だ。
企業向けのサービスはあったものの、ディスク容量10MBで月1〜2万円と、個人が気軽に使うには高額な価格に設定されていた。そこに、田中氏は50MBで月額1000円という、当時としては破格の価格設定でサービスの提供を開始した。
この価格設定を可能にしたのが、前回も紹介したように安価なPCサーバとオープンソースの組み合わせだ。そしてもう1つが、サービス内容を徹底的にシンプルにしたことだ。余計な機能やサービスは一切なし。サーバの領域を提供するだけで、後は「ユーザーがご自由にどうぞ」。ユーザーフレンドリーな機能を削ることで安価な価格設定を可能にしたが、その代わりに「初心者はお断り」というコンセプトを明確に挙げた。
「それでは、一部のITリテラシーの高いユーザー以外は集まらないのではないか?」。そんな疑問が湧くかもしれないが、逆に言えばリテラシーの高いユーザーに完全にターゲットを絞ることこそが、当時の田中氏の狙いだったのだ。それに、もともと田中氏は日本におけるインターネット黎明期からネットコミュニティで活発に活動しており、そこを通じて自然とリテラシーの高い人々が口コミで集まってきたのだ。
「当時、Apacheのメーリングリストを主催していたのですが、そこで『こんなサービスを始めました』と告知したりしているうちに、自然とユーザーが増えていったという感じです。広告の類は一切出しませんでした。どのみち、そんなお金もありませんでしたしね」
では、「特にユーザー数やビジネスの規模にはこだわらずにひっそりと始めたのか?」というと、そういうわけでもないようだ。むしろ、サービス提供を始めた当初から、規模の拡大は明確に意識していたという。
「舞鶴高専で当時お世話になっていた教官から、『そういう商売をするなら、まずは最低でも1000ユーザーはいないと厳しいぞ。やっぱり、スケールメリットを目指さないといけない』と口を酸っぱくして言われていましたから。今でもこの教官の言葉は、強く印象に残っているんです」
当初は、リテラシーの高い一部の個人ユーザーが、趣味のサイトを運営するためにサービスを使い始めた。そうしたユーザーの中には、いわゆる「同人作家」と呼ばれる人も多く含まれており、ネットユーザーの間で人気の高いサイトを運営していた。
そうしたサイトを訪れるユーザーが、いざ自分でサイトを立ち上げようという段になったとき、「じゃあ、あのサイトと同じところで」と、さくらインターネットを利用する。さらに、そうしてできたサイトを訪れたユーザーが、「じゃあ、俺も同じところで」……。こうして、人気サイトのURLを通じて、自然と口コミでさくらインターネットのサービスが広まっていったのだ。
「ドメイン名をシンプルで分かりやすい“sakura”という名前にしたおかげで、人気サイトのURLを一目見ただけでさくらインターネットのサービスを使っていることがすぐに分かったのです」
前回紹介したように、「なるべく短くて分かりやすいドメイン名を」という作戦が、ここで功を奏したわけだ。こうして特に宣伝をしなくても、口コミだけでユーザー数がどんどん増えていった。
とはいえ、当時田中氏はまだ高専の学生。さくらインターネットの活動だけに専念するわけにはいかない。学校の授業に加えて、当時掛け持ちしていた吹奏楽とロボットコンテストの部活動も、手を抜くわけにはいかない。
その合間の時間をフルにつぎ込んで、サーバのメンテナンスやサポート作業に当たった。それでも時間が足りず、ユーザーからの問い合わせメールに対応できずにクレームを受けることも度々だったという。
そんな自転車操業を続けること1年。さすがに1人だけでは業務を回せなくなり、第104回で紹介した田中氏の後輩、菅氏が助っ人として加わる。以後しばらく、さくらインターネットは田中氏と菅氏の二人三脚で運営されることになる。さらにはダンスインターネットの技術者の助けも仰ぎながら、何とか業務を回した。
そうした努力の甲斐あり、1998年3月に田中氏が舞鶴高専を卒業するころには、教官から課せられていた1000ユーザーのラインもクリア。田中氏と菅氏の2人だけなら、何とか食べていけるだけの規模に成長していた。
この続きは、4月25日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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