一時の気の迷いで“受託の麻薬”に手を出す:挑戦者たちの履歴書(108)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、田中氏がさくらインターネットに専業になるまでを取り上げた。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
田中氏は舞鶴高専を卒業した1998年、満を持してさくらインターネットのホスティング事業を行うための法人「有限会社インフォレスト」を立ち上げた。ところで、なぜサービス名である「さくらインターネット」ではなく、「インフォレスト」という社名にしたのだろうか?
「“インフォレスト”という社名は“Information”と“Forest”(森)をくっつけた造語です。要するに『情報の森』。“情報をもっと広げていこう”というコンセプトで付けた名前でした。実は当時は、ホスティングサービス以外の事業にもかなり手を広げていたんです」
例えばシステム開発。特にWebサイト構築やホームページ制作の仕事は、当時世間で沸き起こっていたインターネットブームの時流に乗って引く手あまただったという。また、サーバの販売ビジネスにも手を伸ばした。当時から既に田中氏らは、ホスティングサービスで利用するPCサーバを自前で製作しており、これを外販するようにしたのだ。さらには、ディスプレイ機器やCPUの代理店業務にまで乗り出した。
当時の売り上げは、ホスティングサービスよりも、むしろこうした周辺事業の方が多かったと言う。しかし会社設立の翌年、田中氏は早々とこの路線を修正する。
「当時は、一時の気の迷いがあったんだと思います。『受託システム開発は麻薬だ』とよく言われますが、受託開発の仕事は一度に入ってくるお金の額が大きいので、つい手を出してしまうんですよね。でも、そうした仕事はストックビジネスではないし、人も増やさないとスケールしない。開発作業自体は好きだったんですけど、やっぱり他社のサービスの下請けよりも、自社のサービスをメインに据えないといけないだろうと思い直しました」
ただし、売り上げ的には周辺事業の比率が大きかったとはいえ、ホスティングサービス自体も順調にユーザー数を伸ばしており、データセンターの設備も順次増強していた。そこで、原点であるホスティングサービスに回帰するのであれば、これを機に回線もデータセンターの設備を借りるのではなく、インターネットの相互接続点である「IX(インターネットエクスチェンジ)」に直結した自前の回線を提供できるようにしたいと考えた。そのためには、IXが集中している東京でのデータセンター開設が不可欠だ。
田中氏は決意する。「本格的なデータセンター事業を専門に行うための新会社を設立しよう!」。しかし、インフォレスト単独でそこまで手を広げるのも、少し心許ない……。そこで田中氏が声を掛けたのが、当時神戸を中心にデータセンター事業を営んでいたエス・アール・エスの社長を務めていた笹田亮氏だ。同氏は後に、さくらインターネットの社長を務めることになる人物だ。
「初めは笹田さんに『5%で良いから、新会社に出資してほしい』とお願いしたのですが、最終的には35%ほど出資してもらうことになりました。ちなみに後から聞いた話ですが、当時笹田さんの奥さんは、僕が笹田さんをだまそうとしていると思い込んでいたみたいですね(笑)。『田中さんという人は、本当に悪い人だ!』と、冗談でよくおっしゃっていたそうです!」
とにもかくにも1999年、インフォレストとエス・アール・エスの共同出資という形で、データセンター事業に特化した法人「さくらインターネット株式会社」が設立された。早速、東京・池袋のサンシャインビル構内に、さくらインターネットとしては都内初となるデータセンターを開設した。またそれと同時に、営業拠点も東京に新設した。その背景には、ハウジングサービスへ新たに進出する意図があった。
「ホスティングサービスのユーザー数は急には増えませんから、新設したデータセンターの維持費を払うためには、どうしてもラックを丸ごと貸し出すハウジングをやらざるを得なかったんです」
これまで、ホスティングサービスにひたすら特化してビジネスを伸ばしてきた田中氏にとって、ハウジングはまったく未知の領域だった。しかし1999年当時は、ITバブルがちょうど盛り上がってきていた時代。世間の好景気の波にも乗り、新たに始めたハウジングサービスもユーザーに好評を博し、順調に伸びていった。
「当時はまだ都市型データセンターがあまりなかったころですから、『街中にデータセンターがある』という点をキャッチフレーズに、順調に規模を拡大していきました。もちろんハウジングだけでなく、従来から提供していたホスティングも順調にユーザーを増やしていきました」
こうしてさくらインターネットは、本格的なデータセンター事業者としての第一歩を順調に踏み出した。
この続きは、5月9日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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