手を広げ過ぎて、上場後すぐに地獄へ:挑戦者たちの履歴書(112)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。前回までは、田中氏がさくらインターネットを上場させるまでを取り上げた。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
2005年10月の東証マザーズへの上場後、田中氏はさくらインターネットの副社長として同社の主力事業であるホスティングサービスの拡大を目指して、精力的に動いていた。前回紹介した、中国市場へのチャレンジもその一環だ。
一方で、会社全体としてはデータセンター事業以外の分野への進出に積極的に取り組んでいた。その背景には、データセンターそのものだけでなく、その上に載せるコンテンツも自社で提供することにより、シナジー効果を発揮しようという意図があった。2005年当時、既にデータセンター市場は競争が激しくなってきており、競合他社との差別化を図るために、そして本業であるデータセンター事業のさらなる成長と収益の拡大のためにも、こうした新規事業に乗り出すことが得策だと判断されたからだ。
その第一歩として、上場直後に米国製のオンラインゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズオンライン」や「ロード・オブ・ザ・リングス オンライン」を扱う会社と提携した。オンラインゲームのコンテンツを呼び水にデータセンターの需要喚起を図ったのだ。
翌2006年の4月には、Webサイト制作会社を買収。同年7月には、動画配信サービスの会社を業務提携先と共同出資で新たに立ち上げた。これも、独自の動画コンテンツを配信することによってデータセンターサービスにユーザーを引き込もうという、シナジー効果を狙ったものだった。さらに、動画配信サービス企業にも出資した。
また、アプリケーション製品の販売にも乗り出した。ちょうどそのころ、自社のアプリケーション製品の外販を模索していたソフトハウスを買収した。
当時の状況を振り返って、田中氏は次のように述べる。
「会社を上場した後から交友関係が広がって、外から持ち込まれる話が多くなりました。そういう話は、大抵美味しそうに聞こえてくるものなのですよね……」
こうして、さまざまなコンテンツ事業に急速に手を広げた結果は、果たしてどうだったのか?
「全て失敗しました! 驚くほど見事に……」
田中氏は笑い混じりにこう言うが、その表情にはさすがに苦い色がにじむ。
結局、どの事業に関しても、社内にノウハウを持つ人材がいないまま、見切り発車してしまっていたのが主因だった。
オンラインゲームは、米国の開発元メーカーの意向が強く、国内向けのカスタマイズが思うようにできなかった。例えば、日本におけるオンラインゲームの課金方法は、いわゆる「アイテム課金」がなじみ深いが、この開発元メーカーは、米国流の「月額課金」しか許さなかった。毎月、1500円や2000円の固定料金を支払わないとプレイできない。このような形態では、日本で普及させることは難しかった。
動画配信サービスに関しても、当時既にYouTubeが台頭しており、後にニコニコ動画の登場があるなど、ユーザー投稿型のサービスにトレンドが推移しつつあったのに加えて、自社で魅力的なコンテンツを調達するためのノウハウもほとんどなかった。
結果、さくらインターネットの経営状態は急速に悪化。東証マザーズへの上場から1年後の2006年11月には、早くも業績予測の下方修正を強いられることになった。さらに2007年4月には通年決算発表直前で下方修正を実施。続く2008年3月期の中間決算では、巨額の減損処理を計上したこともあり、ついに債務超過にまで追い込まれる事態となった。
「2005年10月に上場して、2006年に出資を重ねて、その年度でもう一気に赤字に転落。ある意味、ものすごいスピード感ですね……」
冗談交じりに話す田中氏だが、当時を回想する同氏の口ぶりは、少年時代の思い出を語るときとは異なり、さすがに重い。
この続きは、5月18日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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