宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ:挑戦者たちの履歴書(125)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏の大学時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
高校3年生になった瀧田氏は、周囲の同級生たちと同様に、卒業後の進路という人生の節目に直面することになる。ここでよくありがちなのが、自分が進みたいと思う道と、家族や周囲の意向とが噛み合わず、その間で思い悩むというパターンだ。しかし瀧田氏に限って言えば、そういった悩みとはまったく無縁だったようだ。
「私の父親は本当に厳しい人だったのですが、『高校卒業までは親の責任、卒業後は本人の責任』という独特の考えを持っていて、高校卒業後の進路に関してはまったく口を挟みませんでした。なので、進学先の大学を選ぶ際にも、『自分がそこに行きたいのなら、自分の責任で行きなさい』という感じだったんです」
こうして自由な選択肢を与えられた瀧田氏は、ありとあらゆる進学先を検討する。高校3年生だった当時、“将来自分が何を以って身を立てるか”といった明確なライフプランは、まだまだ描くことはできなかった。それでも、やってみたいことはたくさんある。「この大学に行ったら、こんなことができそうだ」「あの大学なら、あんなことが学べそうだ」……。そうした選択肢の中には、何と体育系の大学まで含まれていたと言う。
「高校のときは運動の部活はやってなかったんですけど、足は速くて、学内の800メートル走の記録も持っていたんです。なので、『自分の走りが全国レベルでどれぐらい通用するのか、体育大学の受験で試してみよう』と思って!」
そして実際に瀧田氏は、日本大学文理学部体育学科を受験する。地元の鳥取から、受験会場である都内の日本大学文理学部キャンパス内にある練習用トラックに着いた途端、「もう、トラックの大きさにびっくりしてしまって! 練習用なのに、こんな大きなトラックがあるなんて。もう本当に、田舎者丸出しでしたね!」
結局、同校の合格には至らなかったものの、こんな無謀とも思える挑戦にも瀧田氏の父親は決して口を挟むことはなかったと言う。そして最終的に瀧田氏が進学を決めたのが、明星大学の理工学部。ここに決めたのは、「宇宙工学を勉強してみたい」と思ったのがきっかけだった。
「当時、とある人に『宇宙工学に興味がある』と相談したところ、『確か、明星大学で“宇宙科学”を教える学科があったはず』と教えてもらったんです。そこで、明星大学の理工学部を受験しました」
瀧田氏は晴れて同校に合格。入学して「さあ、“宇宙科学”を勉強するぞ!」と思ったところ、何とそんな学科は存在しなかった! 実際にあったのは宇宙科学どころか、同じ“カガク”でも“化学”の方だったのである。結局瀧田氏は、同校で宇宙工学ではなく、バイオ化学の研究を行うことになる。研究テーマは「酵母菌の突然変異に関する研究」。入学前に抱いていたイメージとのギャップに、さぞかし当時の瀧田氏はがっかりしただろうと思いきや、実際には明星大学への進学を決めた理由はほかにもあったのだと言う。
「明星大学、特に理科系の学部には有名な先生がたくさんいらっしゃって、そういう方々の講義を受けてみたいというのも、大きな志望動機の1つだったんです。例えば、幾何学の世界で有名な蟹谷乗養先生。もうお年を召していらして、講義中もずっと黒板の方を向きっ放しで一度も学生の方を振り向かないんですけど、難解な幾何学の証明を見事にやってみせてくれる。『おお、すごい!』と思いましたね」
第123回で紹介した通り、算数が大の得意だった子どものころの瀧田氏は、大学生になってもやはり数学の世界に魅せられていたようだ。そしてもう1つ興味のあった分野が、「教育」。
「人に何かを教えるということに、興味があったんです。なので、教育方法論といった教育関係の講義は熱心に聴きましたね」
では、教員免許も取得したのだろうか?
「いや、それが取らなかったんです。教えること自体には興味はあったんですけど、資格を取って教員をやることが、自分の天職だとはどうしても思えなかったんですね」
何だかもったいないような気もするが……。しかし実は、瀧田氏の「人に何かを教えること」に対する興味は、その後の同氏のキャリアに大きく影響を与えていくことになる。事実、同氏は現在、さまざまな教育機関で積極的に後進の指導に当たっている。その辺りの経緯については、本連載の後の回でおいおい紹介していくことにしよう。
この続きは、11月18日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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- 不純な動機で選んだ就職先
- バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
- 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- とことんやり、スパッと見切りをつける
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