UNIXに一目ぼれし、ゼロックスへ転職:挑戦者たちの履歴書(129)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏の富士ゼロックス情報システム時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
大学卒業後に新卒として入社した日電東芝情報システムで、メインフレームシステムやPCのCADソフトウェアの開発やサポートに日々奮闘していた瀧田氏。そんなある日、同氏自らが「人生の転機だった」と振り返る大きな出来事が起こる。UNIXとの出会いだ。
「入社して2年目に、CADの仕事でEWS4800というNEC製のUNIXワークステーションに初めて触れたのですが、メインフレームにはないウィンドウシステムを介したシステムや、PCにはない高度なマルチタスク機能。『これはすごい! これからはUNIXだ!』とそのとき思いました」
これからはUNIXだ! UNIXの開発にチャレンジしてみたい! でも、今のメインフレームの仕事では、その機会はなかなか巡ってこないだろう……。そんな思いを強くしていたとき、たまたま目にしたのが富士ゼロックス情報システムのエンジニア求人広告だった。米ゼロックスと言えば、当時はパロ・アルト研究所を有し、UNIXワークステーションの先駆けとなる研究に積極的に取り組んでいた企業だった。
思い立ったが吉日。早速瀧田氏はこの求人に応募し、見事選考をパスする。ときに1988年。この数年後には、「ダウンサイジング」を合言葉に、日本国内において急速な勢いでUNIXワークステーションが普及し始めることになる。瀧田氏はこの流れを、早くから肌で感じていたのである。「新しい職場で、C言語でのUNIX開発に思う存分打ち込んでやる!」。こう意気込んで新しい職場に乗り込んだ同氏だったが、そう簡単に事は運ばなかった……。
「UNIX Cの開発をやりたくて転職したのに、配属されたのはなぜかLISPの開発チームでした。日電東芝情報システムでLISPを勉強した経験を履歴書に書いたのが、裏目に出ちゃったんですねえ……」
しかし、こんなことでメゲている場合ではない。
タイミングが良いことに、ちょうどそのころ、C言語のトレーニング講師を社内で募集していた。当時既に国内ではUNIXに強いことで知られていた富士ゼロックス情報システムだったが、C言語でUNIXの開発をバリバリこなせるエンジニアの数は、まだそう多くはなかったのだ。ましてや世間一般的には、UNIXやC言語などは、まだまだほんの一部の人にしか知られていない最先端技術だった。従って、C言語のトレーニングができる講師役の人間が求められていたのだ。
渡りに船とばかりに、瀧田氏は名乗りを上げる。
「講師を引き受ければ、嫌でも勉強せざるを得なくなるので、きっと自分にとっても役に立つと考えたんです」
人に教えるからには、まずは自分が勉強しなくてはいけない。
当時はまだ、日本語で書かれたC言語の参考書はほとんどなかった時代だ。唯一あったのが、C言語の開発者であるブライアン・カーニハン氏とデニス・リッチー氏が自ら著した「プログラミング言語C」の翻訳版ぐらい。
ちなみにこの本は、かの有名な「Hello World」プログラムが載っている古典的名著である。読者の中にも、かつてこの本を片手に実際に「Hello World」プログラムをUNIXワークステーション上で動かした方もいることだろう。瀧田氏も、そんな初期UNIXフリークの1人だったのである。
こうして、学習した成果をトレーニングの仕事にフィードバックする一方、併行して所属部署での開発業務もこなした。ほどなくして、入社直後に配属されたLISP部隊から、UNIXワークステーション上のCADシステムを開発する部署に移籍。瀧田氏のUNIX熱はますます高まるばかりだった。
「ワークステーション上のデバイスドライバの開発など、UNIX内部のコアな部分にまで踏み込んだ開発に携われたので、いろいろと貴重な勉強をすることができました。周囲にもスキルの高い技術者や、UNIXコミュニティのコアなメンバーがいて、とても刺激を受けましたね!」
やはりこの時期にUNIXと出会ってどっぷりハマったことは、その後の人生を大きく左右する転換期だったと瀧田氏は振り返る。
「ちょうどこの時期、UNIXを通じていろんな人との出会いもあったし、今思うとUNIXが現在のインターネットやWebの世界に私を導いてくれたんじゃないかと思っているんです」
この続きは、11月30日(水)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
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- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
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- UNIXに一目ぼれし、ゼロックスへ転職
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