社会貢献が開いたブラウザ活動への道:挑戦者たちの履歴書(132)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏の東芝時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
前回まで、新人SE時代のUNIXとの出会いから巡り巡って、遂に瀧田氏がブラウザの世界に足を踏み入れるに至るまでの経緯を簡単に紹介した。いよいよここから、瀧田氏のブラウザ世界のダンジョンを巡る大冒険が始まるわけだが……。その前に、東芝に勤務していた時期に同氏が携わっていた、そのほかの仕事も幾つか紹介してみたい。この時期同氏は、UNIXやブラウザの分野以外にも、実に興味深い活動を行っている。
その1つ目が、Javaに関するものだ。
瀧田氏が東芝で所属していたのは、サン・マイクロシステムズ(以下、サン)のワークステーション製品を扱う部署。そこでソフトウェア製品を担当していた瀧田氏は、サンと頻繁にやりとりを行う立場にあった。そうした活動の一環として、サンのユーザー会における活動に積極的に取り組んでいたことは前回紹介した通りだが、当時サンが新たに開発し、世に出たばかりのJavaの普及活動にも、瀧田氏は深く関わっていたのである。
「1995年に米国に出張に行ったとき、サンの研究機関であるサンラボ(Sun Microsystems Laboratories)に立ち寄り、Javaの生みの親であるジェームス・ゴスリン氏に会ってJavaについての話を聞いてきたのですが、当時日本ではまだJavaは話題だけが先行していて、中身を知る人がほとんどいなかったんです。そこで、帰国後サンのユーザー会の会報誌に、Javaについて分かりやすく解説する記事を寄稿したんです」
この記事は、「Java男くん」と「Java子さん」の2人の掛け合いという形を借りて、Javaについて易しく説明するというものだったが、思いの外、反響を呼び、それ以降瀧田氏はサンの依頼を受けて、Javaのエバンジェリストとしての活動にも力を入れていくようになる。
「この記事が出たおかげで、私は当時『Java子』と呼ばれてましたよ! サンの人から頼まれて、イベントや客先など、さまざまな場所でJavaについて話しました。ちょうどこのころから、人前で講演やプレゼンをする機会が増えましたね。もちろんこれも、自分が所属する東芝のマーケティング活動の一環という名目ではありましたけど、会社には自由にいろんなことをやらせてもらって、今でも本当に感謝しています」
さて、Javaに関する社外活動に加えてもう1つ、当時瀧田氏は会社の業務とはまったく別のところで、独自の社外活動に取り組んでいた。インターネットを活用した社会貢献活動だ。
「ネットワーク上の仮想空間って、バリアフリーな世界じゃないですか。なので、例えば身体にハンディキャップを持っている人でも、インターネット上でなら差別を受けることなく、普通の人と対等に仕事や生活を営むことができる。そんな公正な場が、インターネット上なら実現できるのではないかと考えたんです」
そう思い立った瀧田氏は、早速ある試みを始める。当時、同氏の父親が小児科を開業していたこともあり、院内学級を持っている地元鳥取の病院に企業で使われなくなった古いPCを持ち込み、ダイヤルアップ回線でインターネットに接続した。病気や障害のために病院の外になかなか出られない子どもたちを、インターネットを介して外界に連れ出してあげられないかという試みだ。
「患者の子どもやその親御さんたちに、インターネットやWebについて一通り説明した後、『じゃあ、実際にやってみたい人はいますか?』と聞いたところ、筋ジストロフィー患者の男の子が名乗り出たんです。その子にPCやブラウザの操作方法を教えて実際にやらせてあげたところ、Netscape Communicationsの英語のホームページがブラウザに表示された途端、『あ、僕アメリカに行っちゃった』とつぶやいたんです」
このときの印象は、瀧田氏の中に相当強く刻み込まれたようだ。「このときからですかね、インターネットやWebの世界で本格的にやっていきたいと強く思い始めたのは」。インターネットとWebは、人を幸せにできる大きな可能性を秘めているのではないか……。
巡り合わせとは、不思議なものである。そんな思いを日々強くしていた瀧田氏の下に、まさに打って付けのオファーが届く。そしてこれをきっかけに、現在まで続く同氏のブラウザを巡る大冒険が、幕を切って落とされることになるのである。
この続きは、12月12日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
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- 先輩にうまく乗せられて覚えたFORTRAN
- 不純な動機で選んだ就職先
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