ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕:挑戦者たちの履歴書(134)
編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏のネットスケープ入社時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。
1996年、米ネットスケープの日本法人である日本ネットスケープ・コミュニケーションズに入社した瀧田氏。与えられた職務は、サポートエンジニア。サポートエンジニアとは、日本の顧客からの問い合わせに対応し、ときには米国本社と直接やりとりしながら製品サポートに当たる仕事だ。
入社早々、瀧田氏は米国本社で製品のトレーニングを受けることになっていた。早速、出張の準備を整え、米国側の担当者と連絡を取ったところ、こんな返事が返ってきた。「なぜかこっちに、君の上司だと名乗ってる人がいるんだけど……」。
「『なぜだろう?』と思って上司にいろいろ聞いてみたら、私を採用するとき、ちょうど日本法人のヘッドカウントがフリーズされていたので、米国本社のヘッドカウントで採用したらしいんです。上司は『気にしなくていいから!』とは言うものの、結局日本法人の社員なのか米国本社の社員なのか、所属が宙ぶらりんの状態で入社したんですね」
これだけでも驚きだが、混乱はまだまだ続く。
「結局、行く予定だった製品トレーニングが、渡米前日になってキャンセルになってしまいました。当然、明日のフライトで向こうに行く予定なのに、どうしたらいいんだろう?」と思うわけです。そこで、たまたまそのとき、米国本社のクライアント製品担当のディレクターが出張で日本法人に訪れていたので相談してみたという。すると、「ちょうどいま、製品のリリース前で、クライアント製品の開発チームで人手が足りないから、手伝ってくれないか? 細かいところは本社に行けば何とかなるから、取りあえず向こうに行って!」。
……。実はこの偶然の機会が、その後の瀧田氏の人生を大きく左右するターニングポイントになった。しかし当然ながら、当時の瀧田氏はそんなことは知る由もなし。「製品リリース前の一時的なお手伝いなら、せいぜい2〜3週間程度で帰ってこれるだろう」。普通ならそう考えるだろう。当時の瀧田氏も同じように考えていたという。
しかし、結論を先に言ってしまうと、この偶然のきっかけの後、結局は何と2年以上にも渡って米国で仕事をする羽目になってしまうのである!
当時の瀧田氏は英語も片言レベル。「取りあえず行け!」と言われて行ったはいいものの、当然のことながら仕事の勝手はまったく分からない。もうそれこそ、“無い無い尽くし”の状態だ。
「取りあえず本社の現場に行って、皆何をやっているんだろうと思って見てみると、どうも製品のテストをやってるらしい、ということは分かったんですね。じゃあ、テストを手伝えばいいのかなと思って、日本語版のテストをやってる台湾人エンジニアの仕事振りを眺めていたら、『とにかく何でもよいから2バイトコードを入力して、その結果何でもよいから2バイトコードが表示されたらOK』としてたんです! もうびっくりしてしまって、『だめだめ! そんなやり方じゃダメだよ』って!」
当時のネットスケープの開発現場では、「英語版でちゃんと動けば、ひとまずそれで良いだろう」といった雰囲気が大勢を占めていたと言う。
製品のグローバル対応や、ローカライズの重要性に対する意識がまだまだ低かったのだ。製品品質に厳しい日本企業、その中でもトップメーカーの1つである東芝で働いてきた瀧田氏にとって、これだけユルユルな品質保証体制は、到底相容れないものだったに違いない。
それに加え、当時のネットスケープのビジネスの成否を占う上で、日本市場は極めて重要な位置付けに置かれていた。であれば、ちょっとした文字化けでも許されない日本独自の高い品質基準を満たす必要がある。
「それにそもそも、製品リリース直前にいくらテストをしてバグ出しをしても、結局製品に反映させる時間的余裕なんてないのですから、意味がないわけです。そんなこんなで、とにかく製品の国際化(Internationalization)や、QA(Quality Assurance:品質保証)についてどう考えているのか、このままで本当に良いのか、というところからやっていかないといけないと思いました」
なるほど。このような状況では、とても2〜3週間の間、ちょっと手伝って「はい、さようなら〜」とはいかないはずだ。日本に帰ろうにも帰るわけにはいかなくなった結果、瀧田氏は結局この後2年以上に渡って、クライアント製品の国際化とQAの部署で獅子奮迅することになるのである。
この続きは、12月16日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
著者紹介
▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
- 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
- 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 苦心したコミュニティとの関係構築
- 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 出産3時間前まで開発を続ける
- 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- “MOJIBAKE”を一般語化させる
- ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 通勤前後に水泳インストラクターをこなす超人
- UNIXに一目ぼれし、ゼロックスへ転職
- 先輩にうまく乗せられて覚えたFORTRAN
- 不純な動機で選んだ就職先
- バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
- 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- とことんやり、スパッと見切りをつける
- とにかく頑固でわが道を行く少女時代
- “王者IE”に挑み続けた反骨の母
- 非連続的な成長で1000億円企業に
- 奥さまは社員第一号
- 一番やりたいのは“無限にスケールできるPaaS”
- 絶対的な競争力の源泉は“ライセンスコスト”
- 大口解約でもびくともしない経営体質へ
- データセンターがダウンした年末
- インターネット企業ならではの乱高下
- 会社を救うため、数千万円の多重債務者に
- 手を広げ過ぎて、上場後すぐに地獄へ
- “郷に入れば、郷に従わず”に失敗
- 弱冠27歳で東証マザーズ上場を実現
- 従業員の給料をATMで自ら振り込む修羅場
- 一時の気の迷いで“受託の麻薬”に手を出す
- “自転車操業”で、創業期を何とかしのぐ
- マニアにターゲットを絞った戦略が功を奏す
- “さくら”の由来に拍子抜け
- アキバで感動し、18歳でさくらを立ち上げ
- “三股”で多忙を極めた5年間
- 入学早々“校歌しばき”の洗礼を受ける
- 関西と関東の文化の違いにがくぜんとする
- 中学で同じ趣味のマニアに出会う
- 電気工作に明け暮れ、将来の夢は“エンジニア”
- 乗り鉄で“一筆乗車”にハマった幼少時代
- 日本のインターネット黎明期を築いた未成年
- これからの若者は絶対海外へ出るべき!
- 日本企業には“変わる勇気”が必要
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.