こういう性差と印象の関係をさかのぼると、古い。おそらく平安時代にひらがなが発明され、男性が使う公的文章では漢文、女性が記す日記や随筆はひらがな、と書き分けが行なわれたあたりから、男はカクカクで女はまるっこい、というイメージができあがったのではないか。
このようなかき分けは、実に近代まで続くことになる。むろん平安期にあって、紀貫之がひらがなを用いて「土佐日記」を記した例もあるが、これは女の作者を装って書かれている。ネカマの元祖みたいなものであろうと言ったら、言いすぎか。
このような、特定の形や色で男性らしさ、女性らしさをイメージするというのは、ある意味偏見であろう。だがそれを生むのが文化であるのならば、もうそれは仕方がないことかと思っている。
そしてさらに重要なことは、そういう男女の好みのイメージとは、作り手側だけの問題であるのではなく、買い手側にもガッツリ影響しているという点である。例えば携帯電話売り場で機種選びに迷っていると、店員さんや応援の派遣さんがスルスルとすり寄ってきて、「男性(女性)の方に人気が高いのはこちらのモデルですねー」などという。
そうすると「そうかそうなのか」と、自己暗示にかかってしまって、なんだか自分は男性(女性)だからそういう色形が好きなはずだ、と思ってしまう、ということはないだろうか。
これは売り場における一つのテクニックで、どれとも決められない状態への揺さぶりである。その店員の言葉を受け入れるにしても反発するにしても方向性が決まり、少なくとも選択肢が半分になる。限られたデザインの中から自分の好みに合うものを選んでいく過程に置いて、「どれにも決められない」という無限ループ状態から抜け出すのである。
自分の好みに合わせて自由に選んでいるように見せかけて、実は文化によってもたらされた性別の記号化によって選ばされているとしたら、そこには個性など存在しない。
かつて個性とは、個人が作り出すものに対して評された言葉である。例えば絵画や書を評して、個性的とか独創的とか言ったのである。だが今の個性とは、意味合いが違ってきている。
すなわち、探せばどこかに存在する「モノ」で、個性が代用できるようになった。自分で作り上げる労力の代わりに、探す労力がそれに取って代わったのである。言い換えれば、選ぶことが創造性を昇華させている状態と言えるかもしれない。
ただそれでも、なかなか見つからないものを探すという行為は、やや自分自身について理解が始まった段階であるとも言える。その前には、「汎用の個性」に自分を合わせ込んで埋没させることで、特定グループに属すことによる安心感を得ようとする、ティーンエイジャー特有の行動論理が存在するからである。ガングロやゴスロリといった格好が、人間が変わっても見た目が全く同じとなるのは、こういう行動論理によるものだ。
問題は、そこから抜け出すきっかけを失ったままに大人になってしまうことなのかもしれない。量販店の携帯電話売り場をうろつく中高生を眺めるたび、そのように感じてしまう。
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