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ブログという手段――「おばちゃんOL」がジャーナリストを目指す(1/2 ページ)

» 2005年09月22日 14時05分 公開
[岡田有花,ITmedia]

 「ブログを使えば、私でもできるかもしれない」――サイトプロフィールに曰く「普通のおばちゃんOL」だった泉あいさん(38)は昨年末、ジャーナリストになろうと決意し、仕事を辞めた。

 ライター経験、取材経験なし。読者をデスク代わりに、政治家やマスコミ、一般の人々に体当たり取材し、「Grip Blog〜私が見た真実〜」に毎日、記事をつづる。

photo Grip Blog〜私が見た真実〜

“読者が決める”ブログ報道

 泉さんの報道姿勢は独特だ。取材した内容や考えたことは、まるまるネットに公開。読者の声を聞きながら方向性を決めていく。「上司も先輩もいないから、取材のやり方も分からない。読者にデスクになってもらうしかなかった」と泉さんは話す。

 この手法は思わぬ反響を生んだ。「既存のメディアは、取材した内容の一部だけを都合良く切り取ることがあるが、ここは違うんですね」と、好意的な意見が寄せられたのだ。「こういう形でやっていくのもアリなんだ」――自信をもらった。

 取材ネタやインタビューの質問事項も、読者から募集する。衆院選前に行った、福島瑞穂・社民党党首など政治家へのインタビューでは、ブログのコメントで寄せられた質問をぶつけた。

 記事はすべて1人称。「私」の視点で書く。既存メディアの“客観報道”に疑問を持っているためだ。「人が取材して文章を書いているのに、主観が入らないはずがない。客観を装った表現をしておきながら、実は取材者や社の主観を散りばめて読者を誘導する手法を、卑怯だと感じることがある」――ブログのエントリー「私が目指しているもの」に、泉さんはこう記している。

photo 泉あいさん

“日本的”ブログジャーナリズム

 日本のブログジャーナリズムは未発達だと言われることもある。ニュース評論など、マスコミ情報へのツッコミ記事は少なくないが、米国のようにブロガー自身が1次情報を書き起こすことが比較的少ないためだ。

 しかし、ネット上の議論も、草の根ジャーナリズムと言えるのではと泉さんは考える。「それぞれのブログでは、コメントやトラックバックで盛んに議論が交わされていて、それはとても質の高いものだと思います」。泉さんの役割は、議論の土台となる1次情報を取ってくること。「『泉あいの情報なら信頼できる』と言ってもらえるようになりたい」

 読者同士で議論を円滑に進めるてもらうための仕組み「Grip Forum」も作った。特定の記事に対するトラックバックとコメントを一覧表示。コメントからもトラックバックを投げられ、両者の議論をつなぐことができる。

photo Grip Forum

伝えたい情報とPVは比例しない

 マスコミ問題や衆院選など、ネットユーザーの注目が高い内容を扱えば、ページビュー(PV)がアップする。例えば、新潟県中越地震でのマスコミの取材態度について書いた記事は、元新聞記者による人気ブログ「ガ島通信」で紹介され、1日あたりのPVはそれまでの10倍、約1000に増えた。自民党がブロガーを集めて行った懇親会レポートを掲載すると、PVはさらに10倍、1万に伸びた。

 しかし、泉さんが最も伝えたいと感じている内容――福祉や命に関する記事――は、アクセスが伸び悩む。「アクセスが下がっても、伝えていかなくてはいけないと思っています。命に関する問題は、いずれはライフワークにしたいから」

 命とは何か――深く考えた入院生活が、ジャーナリストになろうと決めたきっかけだったからだ。

38歳でジャーナリストを目指した理由

 泉さんは2001年9月、乳がんの宣告を受けた。直前に結婚生活が破綻。それまで「お洋服やお化粧品のことばかり考えている、お気楽なOLだった」という彼女は、命について初めて、真剣に考えた。病気の人や家族の手記を読みあさり、テレビの闘病ドキュメンタリーに「病気と闘っているのは私1人じゃない」と元気をもらった。

 「私の経験を知ることでラクになる人がいるかもしれない」――そう思い、退院後の2002年からネットに闘病記を掲載。当時、末期がんと孤独に闘っていた伯母に関する記事もつづった。更新を続けるうちに読者が増え、応援してくれる人も増えた。

 2004年ごろから、ジャーナリストを目指そうと考え始めた。30代も半ばを過ぎ、何かを始めるには最後のチャンス。ただ、生活や健康の不安を思うと、踏み切れずにいた。

 迷う背中を押したのは、2004年9月に出会った、古居みずえさんの写真だった。古居さんは40歳を前に全身リウマチにかかり、闘病の末、会社員をやめてフォトジャーナリストに。10年以上にわたって、世界の紛争地の女性や子どもを撮り続けていた。「私でもやれるかもしれない」。2004年12月、仕事を辞め、ジャーナリスト一本で生きることにした。

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