ロボット工学を「究極の人間学」として問い直し、最前線の研究者にインタビューした書籍「人とロボットの秘密」(堀田純司著、講談社)を、連載形式で全文掲載します。
バックナンバー:
第3章-1 子どもはなぜ巨大ロボットが好きなのか ポスト「マジンガーZ」と非記号的知能
第3章-2 「親しみやすい」ロボットとは 記号論理の限界と芸術理論 中田亨博士の試み
第4章-2 生物がクオリアを獲得した理由 「受動意識仮説」で解く3つの謎
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ただし「受動意識仮説」が正しくて、意識が結果として出力されているのならば、私たちの意識は、私たちの行動よりも遅れて発生していないといけないことになる。「飲む」という意思の発生よりも、「飲む」という動作の準備が先行している必要がある。
「そんなことはありえない」と、お感じになるだろうか。しかし実は、まさに「行動は意識よりも先に始まる」という実験結果を出した研究が存在するのだ。
それはカリフォルニア大学の神経生理学者、ベンジャミン・リベット教授が行った実験だ。リベット教授は被験者の脳の随意運動野に電極を取り付け、人差し指を曲げる運動の運動準備電位を計測した。
そうして被験者が「指を動かそう」と意図したタイミングと、無意識の領域で運動準備指令が出るタイミング、そして実際の指を動かすタイミングを調べたのである。その結果は驚くべきものであった。
我々の実感で考えると、これらの順序は当然「動かそうとする意識」「運動準備指令」「動作」となる。しかし実際は運動準備指令のほうが、意識よりも0.35秒も早かったのだ。「動かそう」という意識から、動作が遅れるという話ではない。「動かしたい」と意識するよりも早く、無意識は動作に入っていたのである。この結果は当初はまったく無視され、その後論争を巻き起こし、現在では広く承認されている。
自分たちの意識が、主体となって自分の体を動かしているのではない。この仮説は、私たちが日々ありありと感じている実感から、あまりにかけ離れているために受け入れがたいかもしれない。また触覚のモデルがなぜ意識のモデルに適用できるのか疑問に感じられる人もいるだろう。
しかしここで考えていただきたいのだが、たとえば私たちが湯のみに入れた熱いお茶を飲む際、湯のみの質感や温度などは意識できる。しかし、湯のみの重さや温度、摩擦係数など、リアルタイムに変動する多数の情報と相互作用しながら適切に力を入れ、制御していくプロセスは無意識下で反射的に行われ、意識することができない。これら意識できる領域とできない領域はいかに統合され、「持って飲む」という動作を実現しているのだろうか。
あたかもロボットに人が乗り込んで操縦するように、無意識の領域を担当する古い脳が肉体をつかさどり、その肉体にあとから進化した意識が乗っかって動かしているのだろうか。これはこれで変なモデルではないか。
おもしろいことに、21世紀の工学者が最新の工学分野の研究の結果として提案する意識のモデルと、そっくり同じことを17世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザが言っている。
スピノザは主著『エチカ』で、「それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいる──身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技能にのみ依存している」(畠中尚志訳 以下同)と述べ、こう言った。
「人間は自分の行動を意識しているが自分をそれへ決定する原因は知らぬゆえに自分を自由だと信じているということを教えてくれる」
スピノザは意識と肉体を分けて考えなかった。人間の行動が意志によるものであっても、肉体によるものであったとしても、それは同じ現象を異なる表現で呼んでいるだけだと考えたのである。いわゆる心身並行説である。
ただ工学者、前野教授の仮説が哲学と異なるのは「意識はこのように工学的に再現できる」という展望を提示しているところだ。
受動意識仮説では、自律分散処理を行う「無意識ユニット群」からのボトムアップというモデルで、ロボットの意識をつくることができると提案している。ロボットの意識と人間の意識では、素材は違う。しかし実現されている機能は同じだと教授は考えているのだろうか。
そうですね。そうした考え方をとる人を「強いAI論者」と呼びます。また私もその一人なのですが、ロボットやコンピューターの神経回路を適切に接続することで、心をつくることができると主張する人々は、いわゆるコネクショニストと呼ばれています。一方で、心は技術ではつくれないと考える立場の人もいます。
無意識からのボトムアップを集めて、エピソード記憶に流し込むモジュールをつくれば意識の「機能」は実現できる。論文では、このモジュールを「つくりやすい」と提案しています。
しかしそれで機能が再現されたとしても、そこに我々がこのありありと感じている意識という「現象」が生まれているわけではない。2004年に発表した本ではさらに議論の範囲を広げて、現象としての意識もニューラルネットワークを使えば実現できるかもしれない、としています。
前野教授が分類する「機能としての意識」と「現象としての意識」とは心の哲学者が「哲学的ゾンビ」という概念を使って分類するものだ。
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