ロボット工学を「究極の人間学」として問い直し、最前線の研究者にインタビューした書籍「人とロボットの秘密」(堀田純司著、講談社)を、連載形式で全文掲載します。
バックナンバー:
第3章-1 子どもはなぜ巨大ロボットが好きなのか ポスト「マジンガーZ」と非記号的知能
第3章-2 「親しみやすい」ロボットとは 記号論理の限界と芸術理論 中田亨博士の試み
第4章-1 「意識は機械で再現できる」 前野教授の「受動意識仮説」
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まず第1の問い、そして第2の問いには暗黙のうちに、というか当然の常識として、ある前提が存在していることにお気づきだろうか。
それはふだん、私たちがありありと感じている実感。それは「“わたし”という主体的な機能が存在している」という前提である。
第1の問いでは、「“わたし”という個性は、なぜ生まれるのか」が問題だった。そして第2の問いでは「どうやって“わたし”は、すべての情報を把握しトップダウンで行動を決定できるのか」が問題になっている。しかし、そのような能動的な主体など、ないとしたらどうだろうか。私たちが認識や判断、そしてなにより意思決定の主体だと考えている意識の存在が、実はそれが幻想だとしたら。
「受動意識仮説」のモデルでは、意識を、トップダウンで命令を下す主体とは考えない。わたしを運営しているのは「わたし」という主体ではない。わたしを運営し、そのふるまいを決定しているのは、わたしの体の中でさまざまなタスクを反射的に行っている機能の集積。いわば無数の小人による集団の合議制で運営されているのだと考える。
いかがだろう。突飛に感じられるだろうか。しかし「受動意識仮説」が導く人間観は、実は「主体モデル」よりもシンプルで合理的なのだ。
それは各自が反射的にタスクをこなす機能の集積によるボトムアップのシステムである。我々の体内では膨大な反射からなる無数のタスクが機能しており、これらタスクの「並行分散処理」が行われている。そして局面ごとに活発になったニューロンが行動の主導権を握っていく。
このプロセスの連続が、私たちのふるまいである。そして意識は、こうしたプロセスの結果としてあとからアウトプットされる、いわば物語なのである。私たちがありありと感じる“わたし”という意識は、実は行動を決定していないのだ。
こう考えると先に提示した問いは解決する。受動意識仮説では、私たちのふるまいを決定しているのは、私たちの体の中で行われている活動のすべてであるといってよい。だから最初の「わたしという意識はなにゆえに?わたし?という個性を持つのか」という問いの答えは、無数のタスク、体内の小人たちの結合のあり方である。
我々はまず遺伝子にもとづいてこの世界に生まれてくるが、その後さまざまな経験を経て、自分であり続ける。その経験(それは外界のできごとのみならず、思考や読書を通じての体験のような内面世界の情報も含まれる)によって体内の小人のあり方は変わってくる。それが“わたし”という意識のユニークさにつながる。
また第2の問い「バインディング問題」もあっさりと解決がつく。そもそもすべての情報を把握し解釈した上で、それを統合し行動を決定していくような巨大な機能などハナからないのである。その瞬間ごとに活発になったニューロンが、主導権を握って「わたし」を運営していくのだ。
惑星の運行法則で知られるヨハネス・ケプラーは、人間の認知モデルとして「脳の中の小人が観測している」と考えた。ヨーロッパの人は、親から似た子が生まれてくる理由として「精子の中にその生物のミニチュア、つまり小人が入っている」と考えたりもしていたので、なにかと小人を持ち出すのが好きなようだ。しかし物理的な小人こそ入っていなかったものの、生物の中にはDNAとして、親の情報が格納されていたわけで、あながちこの考え方は間違っていなかった。
同じようにケプラーの認知モデルも、「ひとりの意識を持った小人が人間の中に入っている」と考えると無理があるが(その小人の運営は誰が行っているのか。小人の中の小人かという疑問が生じる)、「反射的に自分のタスクをこなしているだけの小人が無数にいる」と考えると合理的なわけである。
しかし、無数の小人の合議制で運営されているのだとすれば、なぜ我々は意識というアウトプットを持つのだろうか。単純な生物が単純な反射行動で生活しているように、意識体験を持たずに膨大な反射の集合体として活動していてもよかったのではないだろうか。
昆虫は単細胞生物よりかなり複雑な生物だが、おそらくその生活に意識体験は存在せず、反射行動の組み合わせで活動している。この昆虫と同じように、ただ大きくなっただけで、反射行動で暮らす人間サイズの生物も想像することは可能だ。
映画に出てくるゾンビがまさにそうした存在で、あれは原始的な本能だけが機能し、単純な反射で行動している生命体である。人間はなぜゾンビのようではなく、意識体験を持つのだろうか。
「受動意識仮説」では意識体験を、小人の活動のプロセスの結果が出力されたものと説明する。ではなぜそうしたアウトプットが必要なのか。この疑問が3番めの問題、クオリアの問題につながっていく。
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