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第4章-2 生物がクオリアを獲得した理由 「受動意識仮説」で解く3つの謎人とロボットの秘密(2/2 ページ)

» 2009年05月28日 14時09分 公開
[堀田純司,ITmedia]
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生物がクオリアを獲得した理由

 意識の役割とはなにか。前野教授は、その問いをこのように考える。「生物は、なにゆえに進化の途上で意識を獲得したのか」と。

 進化とは、新たな形質を獲得することでなんらかの有利さを実現するプロセスである。であるならば、意識の機能を獲得することによって生まれる有利さとはなんだったのか。単純な生物になくて、高度な生物にある脳の機能。それは「エピソード記憶」だ。

 心理学では記憶を、言語として表現できない「非宣言的記憶」と、言葉で表現できる「宣言的記憶」に分類する。

 言語化できない記憶とは、運動のスキルや思考の筋道など、経験することで定着する内部モデルを指す。

 そして言語化できる記憶とは、本とはなにか、文字とはなにかというように物事の意味を記憶する「意味記憶」と、そしてもうひとつ、自分の行動、体験の履歴を記憶する「エピソード記憶」にわけられる。意味記憶は下等な哺乳類も持つというが、「エピソード記憶」は、鳥類や高等な哺乳類しか持たないとされている。

 このエピソード記憶を獲得したことにより、我々はより複雑な状況に適応して生きていくことができる生物に進化した。

「りんご」「食べ物」といった意味記憶を持つだけでも、かなり複雑な生命活動を行うことは可能だ。体験をもとに意味を記憶することができれば、その記憶をもとに「こちらに行けば餌があるはず」など、行動を選択することができるようにはなる。しかし──と、前野教授は論文「意識の起源と進化」(2006年)の中で指摘する。

 エピソード記憶の機能を持っていないと、「自分は昨日どの餌場に行ってどれくらい食べた」「昨日Aの餌場でおいしい餌にありついたので食べつくした。今朝はBの餌場に行ったら腐りかけていた」などというスケジューリングをともなった行動の履歴を持つことができない。

 逆にエピソード記憶の機能があれば、時間の経過にともなってあらわれる原因と結果の因果の連鎖を脳内に記述することができる。これができれば、「こうしたら、こうなるだろう」という、因果関係のシミュレーションを脳で行うことも可能になる。つまりは「思考」することになるのである。

 こうした能力を持つ種が、単純な反射にもとづいてふるまう種よりも、環境適応においては有利であることは明らかだ。逆に言えば高次の生命活動にとって自分自身の行動の履歴をもつことは不可欠であるといえる。

「受動意識仮説」によれば、このエピソード記憶を実現する機能が「意識」なのである。

 注意すべきは、人間は自身の体験した情報のすべてを記憶しているわけではないというところだ。脳はそれらの情報から必要なものだけ編集し、さらに必要であれば都合のよいように変更まで加え、自身の履歴を編み上げている。そして、ここで心の第3の謎であるクオリアが出てくるのだが、エピソード記憶を持ち履歴を持つためには、そこに、ありありとした意識体験がともなうことが不可避であると筆者は感じる。

「今朝あれを食べておいしかった」「あれはまずくて、その後、腹も痛くなった」「熱かった」「気持ちよかった」「気分がいい」「つらい」などの快不快の体験がなければ、情報を選択することができない。そして行動の履歴を持つこともできないだろうと考える。それゆえに、エピソード記憶を獲得するために意識を獲得したのであれば、その意識にクオリアが必然としてともなうと直感的に感じられるのだ。

 筆者個人は前野教授の説にふれ、エピソード記憶の機能を持ち、原因と結果の因果律を獲得するということは、要するに生物が「時間概念」を獲得することなのだと解釈している。単なるクロックとしての時間概念ではなく、時間軸上で解釈される原因と結果の連鎖として。

 私たちの人間観は、常に「意識」という、トップダウンですべてを把握し判断を行う司令塔が存在することを前提としてきた。その前提がある限り、意識は当然、非常に強力な機能でなければならない。

 このいわば“過大評価”が、かつての心身二元論のように精神を、肉体と同様にひとつの実体と考える人間観を生み出し、現在でも「いったい意識の座はどこにあるのか」「どこかに局在するのではなく、脳全体が意識ではないか」といった疑問を呼び、さらには意識を「量子重力理論」で解明しようとするロジャー・ペンローズのような人まで現れる原因となっている。また人工知能の研究では、この司令塔を機械で再現しようとして失敗してきた。

 しかし意識が、受動的に出力される結果であるというモデルならば、意識の謎をうまく説明できるのだ。

 心と体は二つの異なる実体であると主張したデカルトは、動物は非常に優れた機械であると考えていた。そして人間もまた同様に機械なのだが、ただ心を持つ点で異なると見なしていた。

 このように心を特別な存在としてとらえると、心は、進化の段階のどこかの地点で、そこで創発的に飛躍して生まれた機能であると考えることになる。実際、そうした見方をとる人は少なくない。

 しかし生物の進化とは、技術の進歩とは異なり、今あるものをつねに現状に合わせて場当たり的に改良していく営みであり、飛躍的な変化は起こらないものである。だから複雑な動物も、また単純な反射で暮らしている生命体と同じ原理の集合として考えるほうが合理的である。なんといっても我々は彼らの直接の子孫なのだから。

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→次回:第4章-3 機械で心を作るには 「哲学的ゾンビ」と意識

堀田純司

 ノンフィクションライター、編集者。1969年、大阪府大阪市生まれ。大阪桃山学院高校を中退後、上智大学文学部ドイツ文学科入学。在学中よりフリーとして働き始める。

 著書に日本のオタク文化に取材し、その深い掘り下げで注目を集めた「萌え萌えジャパン」(講談社)などがある。近刊は「自分でやってみた男」(同)。自分の好きな作品を自ら“やってみる”というネタ風の本書で“体験型”エンターテインメント紹介という独特の領域に踏み込む。



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