もっともこんな評価は彼らにとっては余計なことであり、本人にしてみれば、行動そのものに価値があったわけであり、成功に終わろうとも失敗に終わろうとも、その結果を問うものでもないのかもしれません。人々もまた、彼らの振る舞いに詩を感じ、結果よりもその意図に共感できるかどうかを重視しているように思います。
ニワトリが先か、卵が先かの話になりますが、陽明学が伝えられたから、独特の行動主義が生まれたのでしょうか。それとも、もともと日本人の情緒として、後先考えない青春の暴走に詩を感じる風土があるのでしょうか。
欧米の法では「なにをやったか」が精密に検証され、「その時なにを考えていたか」はあまり重視されない。しかし日本では犯行の「情状」を解明し、酌量の余地があるかどうか明らかにしようとする傾向があるそうです。
多文化多民族のローコンテクストの社会(アメリカの文化人類学者、エドワード・T・ホールが提唱した概念。言語、価値観、嗜好などの共有度が低い社会)では、動機は究極的には共有されない。たとえば対立している民族同士では、最終的には絶対に相容れない壁にたどりつくはずです。しかし、単一文化の、ハイコンテクストの日本では、動機はしばしば、同情できるものなのかもしれません。サウザーのピラミッド建設のように。
いずれにせよ陽明学は、本当のことを言うと「初心者がうかつにこじらせると、かえって害悪のほうが多い」という評価もあったのですが、明治維新を迎えてむしろ活気を見せ、大川周明や北一輝のような思想家を通して昭和期にも伝播していくことになります。
そしてなぜ私が、今になって過去の歴史を持ち出すかなのですが、ネットの海を漂っていると、興味深いことにこの21世紀の、現代のネット社会でもぜんぜん変わらずに、この「動機がよければ結果は問わない」という原理が見られるのです。
「世界を変えたい」という動機が純粋であれば、議論を重ねるより、まず行動してしまえ。結果が失敗に終わったとしても、意図ならば善だった。当事者のみならず、少なくないネット上の言論人たちも、この原理をもって支持します。
むしろ花ざかりで、これはIT界というものが「議論ばかり重ねてなにもしない」という“朱子学的”な大人の社会に対する、「まず行動せよ」の若い分野という使命を持っているためなのかもしれません。あるいはまた、IT界と言えどもまたこの国の風土の一部であることは間違いないわけで、伝統的な日本の村の、ひとつの村社会を築いている、ということなのかもしれません。
いずれにせよ、こうした状況に国の風土、原型というものの強固さを強く感じます。また長く愛される名作とは、生まれた土地の人々が愛する情緒に、深く関わっているのだと痛感させられます。
堀田純司 1969年大阪府生まれ、作家。著書に「僕とツンデレとハイデガー」「人とロボットの秘密」などがある。書き手が直接読者に届ける電子書籍「AiR」(エア)では編集係を担当。講談社とキングレコードが刊行する電子雑誌「BOX-AiR」の新人賞審査員も務める。
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