矢崎 自分があんまり活躍できる場がなかったときに出会ったのが、PDAですよね。
同時期には携帯電話の特集もやってたんだけど、個人的にはもうPDAが楽しくてしょうがなかった。
西田 あの当時の携帯電話って、やっぱり「携帯電話会社が作って与えてくれるもの」で、僕らが何か使えるもの、というイメージじゃなかったんですよね。
矢崎 ツール感がないのよ。ツール感がなくて、エンターテインメント端末だったの。
iモードもすごかったし、もちろん携帯の特集もやって、担当してたんだけど。
でもね、全然面白くなくて、携帯電話。
「Palm」とか「CLIE」とか「Visor」とか「WorkPad」とか、あのへんが出てきたときに、ものすごく心ときめいて、それの特集ばっかやるようになった。
そうしたら、だんだんこう、モバイルコンピューティングのほうに来るじゃない、流れが。
それで認められて、連載も持つようになって、さらにデスクになって、と。
だから、PDAがなかったら途中で週アスをクビになったかもしれない(苦笑)。
西田 自分が「これが好きだ」というのが見つかったから、それに熱中したし、熱中したからこそ、記事も熱意があって外に面白さが伝わるものになったし……というところで変わっていった。
矢崎 まさにその通りで。
「スマートフォンは携帯電話が進化したもの」と思ってる人が多いかもしれないけれど、スマートフォンの基本的なところはPDAだと思ってて。PDAこそスモールコンピュータだったしね。
当時から、通信機能を備えた「Treo」とか、「WorkPad」の中にPHSが入ったやつとか、徐々に出てきはするんだけど、「携帯電話がPDAの形になる」って、もうそのときに思ってたの。
信じてたの。
矢崎 絶対そうなるって分かってたんだけど、でも時代って面白いもので、携帯電話がものすごく一般的に普及していくと、PDAって一回廃れちゃうじゃない?
西田 そうですね。
矢崎 でも当時はたまたま、ノキアが世界でものすごいシェアを取ってた。PDAがなくなって、日本はガラケー全盛期だったんだけども、ノキアがけっこう「高機能コミュニケーター」みたいなのを出してたんですよ。
でも、日本では売ってなかった。日本で売ったのは「702NK」とか、ソフトバンク(当時Vodafone)が出したやつからで。
で、もう死ぬほどノキアにハマってたの。
西田 だから、海外から謎のコンピュータを持ってきて紹介する、という「リスキー」なことをやってた。
矢崎 そうそう。
今はまあ、技適の問題はともかくとして、日本語ロケールに設定するだけでいいけど、当時はずっと大変で。ノキアの海外の携帯を買ってきても、日本語フォントを入れて、日本語FEPを入れて、みたいなのをする必要があった。
そしてね、ググっても情報がない。
だから、自分で、日本でFEPを作ってる人と連絡を取り合って、日本でもノキアの携帯を使えるようにしてた。
そのあまりにもニッチすぎる情報を、「週間リスキー」として掲載したりしてたら、仲間ができて、山根博士(山根康宏氏)とも仲良くなって。
で、その感じがそのままスマートフォンに流れていく、みたいな。
本当に、モバイルフォンという製品がなければ、自分のキャリアは築けてないぐらい。
西田 なるほどね。たしかに。
矢崎 本当にこの仕事をやって良かったな、と思う。
山根博士と一緒に、中国・深センに行ったのね。山根博士は「ゴミ屋敷」って言ってたけど、そこには、携帯電話のパーツを――中古携帯電話のパーツを売ってね、その日暮らししてる方がいる。
西田 いますね。
矢崎 それも見たし、こうやってライターの人たちともすごく仲良くなれて、ブロガーの人ともけっこう知り合えて。
それで、ティム・クック、ジョナサン・アイブやら、スティーブ・ウォズニアックとね、一緒に写真を撮ったりできて。
全部が見られた。
どこかのメーカーに入ってたら、全部は見られないじゃない。
西田 そうですね。
矢崎 編集者をやったことで、全部が見られたな、というのをすごく思う。
それはすごく良い経験。
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