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Engadget日本版はなぜ終わったのか、最後の編集長・矢崎飛鳥氏に聞く(第1回) 「矢崎Engadget」はいかにして生まれたのか(2/4 ページ)

» 2022年05月18日 13時52分 公開
[西田宗千佳ITmedia]

PDAとの出会いが人生を変えた

矢崎 自分があんまり活躍できる場がなかったときに出会ったのが、PDAですよね。

 同時期には携帯電話の特集もやってたんだけど、個人的にはもうPDAが楽しくてしょうがなかった。

西田 あの当時の携帯電話って、やっぱり「携帯電話会社が作って与えてくれるもの」で、僕らが何か使えるもの、というイメージじゃなかったんですよね。

矢崎 ツール感がないのよ。ツール感がなくて、エンターテインメント端末だったの。

 iモードもすごかったし、もちろん携帯の特集もやって、担当してたんだけど。

 でもね、全然面白くなくて、携帯電話。

 「Palm」とか「CLIE」とか「Visor」とか「WorkPad」とか、あのへんが出てきたときに、ものすごく心ときめいて、それの特集ばっかやるようになった。

 そうしたら、だんだんこう、モバイルコンピューティングのほうに来るじゃない、流れが。

 それで認められて、連載も持つようになって、さらにデスクになって、と。

 だから、PDAがなかったら途中で週アスをクビになったかもしれない(苦笑)。

西田 自分が「これが好きだ」というのが見つかったから、それに熱中したし、熱中したからこそ、記事も熱意があって外に面白さが伝わるものになったし……というところで変わっていった。

矢崎 まさにその通りで。

 「スマートフォンは携帯電話が進化したもの」と思ってる人が多いかもしれないけれど、スマートフォンの基本的なところはPDAだと思ってて。PDAこそスモールコンピュータだったしね。

 当時から、通信機能を備えた「Treo」とか、「WorkPad」の中にPHSが入ったやつとか、徐々に出てきはするんだけど、「携帯電話がPDAの形になる」って、もうそのときに思ってたの。

 信じてたの。

「週間リスキー」誕生

矢崎 絶対そうなるって分かってたんだけど、でも時代って面白いもので、携帯電話がものすごく一般的に普及していくと、PDAって一回廃れちゃうじゃない?

西田 そうですね。

矢崎 でも当時はたまたま、ノキアが世界でものすごいシェアを取ってた。PDAがなくなって、日本はガラケー全盛期だったんだけども、ノキアがけっこう「高機能コミュニケーター」みたいなのを出してたんですよ。

 でも、日本では売ってなかった。日本で売ったのは「702NK」とか、ソフトバンク(当時Vodafone)が出したやつからで。

 で、もう死ぬほどノキアにハマってたの。

photo Nokia N73(ソフトバンク版)

西田 だから、海外から謎のコンピュータを持ってきて紹介する、という「リスキー」なことをやってた。

矢崎 そうそう。

 今はまあ、技適の問題はともかくとして、日本語ロケールに設定するだけでいいけど、当時はずっと大変で。ノキアの海外の携帯を買ってきても、日本語フォントを入れて、日本語FEPを入れて、みたいなのをする必要があった。

 そしてね、ググっても情報がない。

だから、自分で、日本でFEPを作ってる人と連絡を取り合って、日本でもノキアの携帯を使えるようにしてた。

 そのあまりにもニッチすぎる情報を、「週間リスキー」として掲載したりしてたら、仲間ができて、山根博士(山根康宏氏)とも仲良くなって。

 で、その感じがそのままスマートフォンに流れていく、みたいな。

 本当に、モバイルフォンという製品がなければ、自分のキャリアは築けてないぐらい。

西田 なるほどね。たしかに。

矢崎 本当にこの仕事をやって良かったな、と思う。

 山根博士と一緒に、中国・深センに行ったのね。山根博士は「ゴミ屋敷」って言ってたけど、そこには、携帯電話のパーツを――中古携帯電話のパーツを売ってね、その日暮らししてる方がいる。

西田 いますね。

矢崎 それも見たし、こうやってライターの人たちともすごく仲良くなれて、ブロガーの人ともけっこう知り合えて。

 それで、ティム・クック、ジョナサン・アイブやら、スティーブ・ウォズニアックとね、一緒に写真を撮ったりできて。

 全部が見られた。

 どこかのメーカーに入ってたら、全部は見られないじゃない。

西田 そうですね。

矢崎 編集者をやったことで、全部が見られたな、というのをすごく思う。

 それはすごく良い経験。

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