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64bitへの移行に20年を要したIntelの挫折 Itaniumの大失敗とOpteronへの敗北“PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(3/4 ページ)

» 2022年06月22日 08時00分 公開
[大原雄介ITmedia]

Itaniumが大コケ

 最初の製品であるMercedは1998年にサンプル出荷、1999年に量産出荷が始まる予定だったが、そこから3回の延期を伴い、最終的に出荷されたのは2001年6月のこと。おまけに性能が予想よりも低く、商品として成立しないということで、製造されたMercedは全量がソフトウェア開発者向けの開発プラットフォーム用に無償提供。製品として出荷されたのは、0.13μmプロセスで再設計し直したMcKinleyで、これがItanium 2として市場に出たのは2002年のこと。しかもこの時点でもItanium 2は市場最高速とは言い難かった。こんな体たらくでは、とてもx86の置き換えを図るのは不可能である。そこでIntelは急遽Plan Bを検討し始める。それがYamhillと呼ばれる新しい64bitの命令セットだ。

 何しろ最終的に一切世の中に出なかったから、Yamhillがどんなものだったかは不明である。

 ただ少なくともVILWでなかったことは間違いなく、それ故にItaniumとは全く異なる命令セットだった。またx86とも異なるものだったらしい。

 もともとのx86というか、ベースになるのは8080であるが、これは汎用レジスタが非常に少ない(当時レジスタは高価だった)ため、スタックを多用するアーキテクチャだった。これは1970年代には合理的な構成だったが、2000年にもなるとかなり厳しい。もうRISC風に汎用レジスタを多数使いまわしてのレジスタ間演算アーキテクチャが合理的であり、実際x86プロセッサも内部ではRISC命令に変換してレジスタ間演算をブン回す形で高速化されている。恐らくRISC風の命令セットだったのではないかと想像される。

 x86の命令体系を作った会社だけに、その限界というか非合理性も良く分かっており、命令体系を一新できるいいチャンスと思ったのだろう。こうした考え方そのものは珍しくない。最近だとArmの64bit命令(AArch64)は、32bit命令(AArch32)と全く異なる命令体系になっている。このYamhillはPrescottこと第3世代Pentium 4に搭載されて2004年中に市場投入されり予定であった。

 このIntelの計画の前に立ちはだかったのは、AMDとMicrosoftだった。まずAMDだが、1999年10月に開催されたMicroProcessor Forum 1999で当時CTOを務めていたフレッド・ウェーバー氏がx86-64を発表(写真1)。

photo 写真1:当時の発表スライドより。x86-64はx86の命令体系をそのまま維持しながら64bit拡張するというものだった

 これを実装したAMD Opteronを2003年4月に発表(写真2)し、初の64bit x86プロセッサを投入という実績を作り、おまけにDELL、HP、IBM、Sun Microsystemsという(当時の)4大サーバメーカーの採用を勝ち取るに至る。

photo 写真2:これは(多分)事前説明会における展示の際の撮影。Opteron 240である。当時AMDは0.13μm SOIプロセスの立ち上げに苦しんだ。特にSpeed Yieldの低さが大問題であったが、それでも製品が出たことの意義は大きかった

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