例えば新規事業を開拓したり、新商品を開発する部署に配属されたとする。これまでにない、画期的な商品、あるいはサービスを作れと期待されているわけだ。多様性があったほうがいいということでバックボーンもバラバラなメンバーが集められ、じゃあ何をやるのか、ということになる。実にとりとめのない話である。
とりあえず関係しそうなマーケティング調査を集めたり、過去の製品の顧客アンケートを漁ったりして、何とか新しいもののアイデアをひねり出そうとする。だがいくつかの企業は、このようにやみくもに走り出す前に、哲学的な対話が活かせるのではないか、と気がついたわけだ。
例えば、『「新しい」ってなんですか?』という哲学的問いについて、メンバーで考えていく。「哲学」の語源となったギリシャ語の「Philosophia」は、好む・愛するという意味の「Philo~」と、知恵を表す「Sophie」からできている。 つまり、知恵愛好者というか、知恵フリークといった意味だ。そう考えれば、「哲学」は親しみやすいものになる。
例えば「これまで存在しないものだけが新しいものなのか」という考えもある。自分が知らなかったことは、大抵「新しい」のではないか。それならば、「新しい」は、「周知」や「認知」の問題なのではないか。
あるいは、既知のもの2つが1つに合わさっただけで、これまでにはないものが出来上がる。それは「新しい」のではないか。ゼロから作らなくても、「新しい」は作れるのではないか。
また「新しい」は、既存の知識の延長線上になければ理解できないのではないか。理解不能なものは「新しい」とは違うのではないか。
お互いにこうした考えを出し合っていく。この場は、必ずしも何か1つの結論や、1つのキーワードに到達する必要はない。さらに言えば、自分の考えが採用されることに必死になる必要もないし、合意形成する必要もない。
似たようなものに、ブレインストーミングとかワークショップといった手法がある。どれもある意味、考え方に揺さぶりをかけるものではあるが、アプローチの仕方が異なり、またそのゴールも異なる。
こうした哲学的な対話によって得られるものは複数ある。一つは、なるほどそういう考え方もあるなと、視野が広がることだ。他の人の考えで一つでも腑に落ちるものがあれば、それは十分に自分に対しての「おみやげ」になる。おみやげは、成長の糧になるし、プロジェクトを推進するための土台となる。
もう一つは、考えを披露し合う過程で、仲間への理解が深まることだ。意外にそういう考え方をするんだとか、普段の仕事ぶりからは知り得なかった一面を発見できれば、相互理解につながる。長年一緒に働いていても、気づけなかったところが見つかるかもしれない。それ以降は、その部分を生かしてやることができるかもしれない。
つまりこうした哲学的対話を通して、視野を広げることと、人を知ることの2つが同時に得られるというわけだ。
ただ、こうした会を開催するにあたり、全員が最初からその趣旨を理解して挑めるかどうかはわからない。上司も参加していれば、この場が出世のチャンスだと勘違いする人もいるかもしれない。だがそこに哲学者が1人いて、ルールや方向性をコーディネートしてくれれば、ほとんどの人はその会を通じて、何らかの成果を得ることができる。
ある種偏見めいたことを言うが、職業人生の最初のほうで昭和時代を経験した人は、これ、何かに似てるなと思われたかもしれない。こうした哲学的対話がこれまで社会に全く存在してなかったかといえば、存在してはいたのである。筆者は昔の哲学的対話は、会社の「飲み会」の中にあったのではなかったかと思うのだ。
昭和時代に存在した飲み会は、「飲みニケーション」などと言われ、コミュニケーションに重点が置かれていたと思われがちだが、アルコールの力を借りてリラックスすることで、普段仕事では忙しくて話せないようなことも話して、考えを深めるといった意味合いもあった。
もちろん、すべての飲み会が哲学的だったわけではなく、個人的な経験では今日は深い話だったなとか、得るものがあったなといったのは5回に1回ぐらいしかなかった。哲学的な部分の効能は、うまく言語化されていなかったために、軽視されたのだろう。しかも大抵翌朝には忘れてしまうというデメリットはあった。ただその人に対しての見方が変わったという部分は、自分のおみやげとして持ち帰ることができたように思う。
昨今はお酒が飲めない人も珍しくなくなり、若い人はプライベートな時間を潰してまで会社の人と酒を飲むという意義が見いだせずに、参加を嫌がるようになった。コロナ禍も経過したことで、すっかり飲み会をやるという慣習自体が失われた感もある。
ただ、飲み会に相当する「機能」であったり、そこから得られる「効能」は、企業にとってはどこかで必要だったのだろう。そうした効能が得られる「会」としての「哲学的対話」が注目され始めたという一面はあるのではないだろうか。これなら就業時間内にできるし、アルコールを飲まないので収穫は確実に持ち帰れる。しかも業務に関わるテーマであるなら、一石二鳥だ。
現代のような情報社会では、「知ること」にあまりにも重点が置かれすぎている。多くを知ったからといって、多くの結果が出せるわけではない。情報を右から左に移しただけ、誰かの考えを借りてきただけでは、何も生み出していない。
哲学という言葉だけで躊躇してしまう人も多いところだが、「これについて考えてみたかった」ことを改めて考えてみるというのは、自分にとっても楽しいものだ。
そして成果とは、「考えた結果」であるべきだ。哲学の原点、知恵フリーク的な活動は、情報過多な社会において、必要不可欠な揺り戻しと言えるかもしれない。
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