このコーナーでは、2014年から先端テクノロジーの研究を論文単位で記事にしているWebメディア「Seamless」(シームレス)を主宰する山下裕毅氏が執筆。新規性の高い科学論文を山下氏がピックアップし、解説する。
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英オックスフォード大学に所属する研究者らがNature誌で発表した論文「Mitochondrial origins of the pressure to sleep」は、睡眠への欲求は細胞内のエネルギー工場であるミトコンドリアの損傷と修復のサイクルに起因することを発見した研究報告だ。
研究チームは、ショウジョウバエの脳内で睡眠を制御する特殊な神経細胞群(dFBN)に着目した。十分に睡眠をとったハエと一晩中眠らせなかったハエから1万3000個以上の脳細胞を採取し、個々の細胞における遺伝子活動を詳細に解析した。
結果、睡眠不足のハエの睡眠制御神経細胞では、ミトコンドリア関連の遺伝子が著しく活性化していることが判明した。これらの遺伝子は、生体のエネルギー通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の生産に関わるタンパク質を設計している。
興味深いことに、睡眠不足は遺伝子発現の変化だけでなく、ミトコンドリアの形態にも影響を与えていた。通常は細長い管状構造を保つミトコンドリアが、睡眠不足の状態では小さな断片に分裂していたのである。同時に、ミトコンドリアと小胞体(細胞内の別の重要な器官)との接触点が増加し、損傷したミトコンドリアを除去する細胞内清掃システムである「マイトファジー」も活性化していた。
この現象の背後にあるメカニズムは次に示す通りだ。覚醒中、私たちは食事からエネルギーを取り込み続けるが、睡眠制御神経細胞は覚醒を促すドーパミンによって活動が抑制される。
その結果、エネルギー供給は豊富なのに消費が少ないという不均衡が生じる。この状況下では、ミトコンドリア内の電子伝達系で処理しきれない余剰電子が発生し、それらが酸素と反応して活性酸素を生成する。活性酸素は細胞に深刻なダメージを与えるため、ミトコンドリアは断片化することで被害を最小限に抑えようとする。
研究チームはこの仮説を検証するため、遺伝子工学的手法を用いて実験を行った。まず、余剰電子を安全に処理できる代替酸化酵素をハエの睡眠制御神経細胞に導入したところ、睡眠への欲求が顕著に減少した。逆に、光駆動型プロトンポンプを用いて人工的にATPを生産させると、電子伝達系を介さないエネルギー生産により電子が余剰となり、ハエは急速に眠気を催した。
さらに、ミトコンドリアの融合と分裂を制御するタンパク質を操作する実験も実施。ミトコンドリアの分裂を促進すると睡眠時間が減少し、融合を促進すると睡眠時間が増加した。これらの形態変化は神経細胞の電気的特性にも影響を及ぼし、融合したミトコンドリアを持つ細胞は睡眠を誘発する特殊な発火パターンを示した。
注目したいのは、回復睡眠後のミトコンドリアの変化だ。十分な睡眠をとると、断片化していたミトコンドリアは再び融合し、睡眠前よりも大きな構造を形成した。これは睡眠中に細胞が積極的にダメージを修復し、次の覚醒期に備えて準備を整えていることを示唆している。
Source and Image Credits: Sarnataro, R., Velasco, C.D., Monaco, N. et al. Mitochondrial origins of the pressure to sleep. Nature(2025). https://doi.org/10.1038/s41586-025-09261-y
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