学生のAI利用に関して、学校側がどのように管理し、判断しているのかは重要である。教員に対するアンケートで、教育現場での課題として、興味深い結果が出た。
「自校におけるAIガイドラインの有無」に関しては、ガイドラインがないという学校は激減している。それに伴って、「AIのどのような使用が不正行為になるかの判断」に関しても、悩みは減っている。
「AIの使用が疑われる不正な提出レポート」に関しては、中学・高校ではかなり増加傾向にある。一方で大学・大学院においては、ほぼ逆の結果となっている。これは、中高では基本的にレポートにAIを使用することが原則禁止されている一方、大学・大学院は寛容になっており、こうしたルールの違いはありそうだ。
AIが利用されることを踏まえた評価活動としては、不正な行為をさせないような取り組みの必要性は、大学・大学院教員が最も高い値を示す。もちろん、中高でも高い傾向にはある。
さらに踏み込んだところでは、AIが利用できないよう、レポート提出より筆記試験を重視するという意見も根強く残っている。もともと中高は定期考査が基本であり、レポート提出で済むような教科は少ない。一方大学はレポート提出は評価方法として大きな比重を占めるが、そこを筆記試験への評価に移すかもしれないという可能性は感じさせる。
ただ、大学の単位修得は暗記ものではなく、テーマに対する調査研究活動を伴う。参照資料もなく1〜2時間の試験によって評価可能な科目は、それほど多くないだろう。
実際問題、AIを課題やレポートに使用した学生は、大学生ではすでに7割を超え、高校生もそれに届く勢いで増加している。
武蔵大学社会学部メディア社会学科の庄司昌彦教授は、公開したnoteの中で、確かにAIを使ったレポートはよくできており、資料調査や読みやすさの点でもレベルが上がっていると述べている。しかしその一方で、「薄味」になったとも指摘している。つまり、きれいではあるが面白くはないということだ。
面白いとは笑えるということではなく、個性的な視点や具体例がなくなって、平準化が起こっているということだ。よって合格ラインには達しているが、突出した評価は得られないという。
これは、最新のニュースをAIが要約した文章を読めば同様の感覚が得られるはずだ。事実は外していないのだが、読んでいて面白くない。それはAIを通ることで、書き手の思いや個性がきれいに洗い流されてしまうからだ。読みたくなる文章というのは、中心に骨がある。きれいに骨を取って身だけになった魚料理に魅力がないような感じである。
学生にとっては単位が取れればいいので、突出した評価はいらないのかもしれない。ただこうした中でも、AIを駆使して調査範囲を拡大したり考えを整理したりして、より高いレベルにまで到達できている学生も出てきているという。求められるのはこうした使い方ができる人材であり、全員がこのレベルになることが求められる。少なくとも大学以上においては、「AI導入の是非」の時代はあっという間に過ぎて、「どう使うか」の時代に突入したといえる。
つまりこれまでAIを使うのは学生側の責任であったわけだが、これからは大学側がどう使うべきかを指導する立場になり、しかもその成果は大学の評価につながるという、大転換が起こることになる。
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