謀略を繰り返した真田昌幸、それでも守りたかったのは……「真田丸」を100倍楽しむ小話(2/2 ページ)

» 2016年10月01日 08時00分 公開
[ITmedia]
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小日向: う〜ん、撃退された忍城攻めは石田三成が指揮官でしたし、ほとんどないと言っていいのでは。

 あと、昌幸はものすごい数の武将を謀殺しています。ドラマでも室賀正武や春日信達のだまし討ちがありました。信達殺害の回(第8回「調略」)の後には、「昌幸ひどい」とお茶の間で好感度が下がったようですが(笑)、実際にはもっと数えきれないほどの謀殺を繰り返しているのです。

編集部F: 謀殺が得意な戦国武将と言えば毛利元就も有名ですが、昌幸はそれに匹敵すると言ってもいいですね。

長谷寺にある昌幸の墓。六文銭も 長谷寺にある昌幸の墓。六文銭も

小日向: 昌幸の代名詞と言えば「表裏比興の者」。この言葉に代表されるように、昌幸はコロコロと寝返ったり、計算高かったり、自己中心的だったりとマイナス評価する人も少なくありません。けれども、私もそうですが、昌幸が好きな人が口を揃えて言うのが、そのような振る舞いをしていても、ずっと忠誠心は武田家にあるというところが素敵なのです。

編集部F: ドラマの中でも武田家の領地だった甲斐と信濃を取り返すんだと意気込む場面が何度もありましたね。死ぬ間際も「お館さま!」と叫び、武田信玄のことを強く思っていました。

小日向: 元々、昌幸は信玄の馬廻り役を務めていて、とにかく信玄のことが大好きで仕方なかったのです。長男に真田信綱がいたので、本来、昌幸は真田家の家督を継ぐはずではありませんでした。本当ならばずっと信玄のそばで仕えていたかったのですが、タナボタで真田家の当主になってしまいました。それでもずっと信玄への忠義は忘れず、甲斐を取り戻して、最後は信玄の隣で眠りたいと思っていたのではないでしょうか。

編集部F: 軍略も信玄に学んだのですね?

小日向: そうですね。武田家と言えば、孫子の兵法ですから。昌幸は信玄に「我が両目の如き」と評され、「小信玄」という異名もあります。

 これほどまでの忠義があったからこそ、昌幸は魅力的なのだと思います。そして、卑怯な手を使ったり、謀殺を繰り返したりしたのも、真田一族や上田城など大切なものを守るためだからです。決して好んでやっていたわけではないと思いますよ。

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