2019年5月1日に元号が変わり、新たな時代が幕を開ける。平成の約30年間でビジネス環境は大きく変化した。その最大の要因はインターネットの登場である。しかし一方で、働き方や企業組織の本質は昭和の時代から一向に変わっていないように思える。新時代に突入する中、いつまでも古びた仕事のやり方、考え方で日本企業は生き残れるのだろうか……? 本特集では、ポスト平成の働き方、企業のあるべき姿を探る。
第1回:「平成女子」の憂鬱 職場に取り憑く“昭和の亡霊”の正体とは?
第2回:「東大博士の起業家」ジーンクエスト高橋祥子が考える“ポスト平成の働き方”
第3回:「3年以内に辞める若手は根性なし」という批判が、時代遅れになった理由
第5回:本記事
2018年3月に出版され、25万部超えのベストセラーになった『1分で話せ』(SBクリエイティブ)の著者であるYahoo!アカデミア学長の伊藤羊一さん。受験業界では男子御三家といわれる超難関校の一つである名門・麻布中学から同高校を経て、東京大学に入学。その後、日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に新卒入社した後に、文具メーカー・プラス(東京都港区)の流通カンパニーでナンバー2も経験した。この間、社会人大学院であるグロービス経営大学院に通い、教える側に立ったあと、請われてヤフーに転職した人物だ。
誰もがうらやむようなキャリアをたどってきた伊藤さんの社会人人生は、ジェットコースターのように起伏の激しいものだった。今でいう「うつ病」状態になったり、仕事上で詐欺にあったり、左遷を経験したりと、普通であれば逃げ出してしまいたくなるような壁に何度も直面したが、その度に逃げることなく壁を乗り越えてきた。
これだけの輝かしいキャリアを築けた人だから乗り越えられた――。そう思う読者もいるかもしれないが、インタビューを終えた筆者は、「その方法は誰にでも応用可能だ」と感じている。彼の軌跡と仕事観を通して、ビジネスパーソンに必要な思考法と「ポスト平成時代」を乗り切る働き方は何たるかを聞いた。
―――今日はよろしくお願いします。まずは幼少期から振り返っていただきたいのですが、中学から麻布中学校に入学したとお聞きしました。私は東京で塾講師のアルバイトをしていたので、麻布というと優秀で自由という印象があります。どんな学生生活を送っていましたか?
はい、まさに仰る通りで「自由」でした。麻布に通っていた人間はもちろん、周りもそういう認識なんですね。その背景には学校の歴史があるんです。昔、学園紛争とか大学紛争と呼ばれる運動があって、そういう運動をしている大学はたくさんあったのですが、高校でそういう運動をしていたのは全国で2校だけで、そのうちの1校が麻布だったと聞いています。「自由を勝ち取った」という思いが強いから、制服も校則もない。基本的には自分たちで決めるという「自治」の考えが強かったんですね。この麻布の校風は意図的に作られていると思います。
でも、そういう校風に憧れていたから受験したとかではなくて、入るまでは知りませんでした。「何をやってもいいけど、人には迷惑を掛けちゃダメ」。こういう思考法は中学高校の6年間で体に染み込んでいきました。高校を卒業して30年以上たちましたが、自分の人生のベースは麻布時代に作られたな、と実感しています。
そういう環境だったので、周りの生徒はみんなキャラが立っていたんです。自分は優しく育てられてきたんですね。和を優先するみたいな。だから、自分がどうしたいとかは言わないし、そういう自己主張が得意じゃなかった。だから、自分の中では中高時代に変化はあったんだけど、周りと比べると普通の子という感じで、少し生きづらさはあったかな。小学校の時はみんなのリーダー的存在だったんだけど(笑)。
―――なるほど。かなり早い段階で人生のベースが確立されていったのですね。その後、東大に入学する訳ですが、麻布から東大というと男子で考えられるエリートコースそのものですよね。どんな大学生活でしたか?
そうなんですよ。麻布から東大って言うと、みんなにエリートコースだと言われます。第三者的にはエリートコースに見えるかもしれません。でも、自分の発想は逆で、コンプレックスがどんどんと増していったんですね。小学校時代は周りに比べて勉強もできたし、スポーツもできたので自然とリーダー的存在になったんです。でも、麻布では自分より賢い生徒に囲まれて、大学に入ったら、日本中の優秀な学生ばかりで。なんで自分はここにいるんだろうと思っていました。
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