少し前、こんな記事を読んだ。
小さい頃でいえば、体育で跳び箱の飛び方を教えてもらうとき。
或いは、中学のときに英文の文法を授業で習うとき。
或いは、社会人になって最初に、ピラミッドストラクチャーに基づく1ページメモの書き方を、コンクルージョンファーストだよとアホみたいに叩き込まれるとき(苦笑)。
およそきっと、若い頃は、こうした「一方的に何かを教えられる」という経験に事欠かない。
ところが、である。大体30歳前後になってくると、多くの場合、こうやって純粋に何かを「教えられる」という経験が減り、逆に「教える」という立場が多くなる。
これは、非常に危険である。
一方的に教えてもらうときの、あの感覚。
「自分がとても無力に感じる」
「猫のようにごろにゃーんとお腹をみせて無防備にする」
「なんでもまずはスポンジのように吸収しようと謙虚になる」
「そもそも、めっちゃ緊張する」
「自分が上手くできるかどうか、不安になる」
こういう感じを、忘れてしまうのだ。
実は、私にとって、釣りはまさに、「無力で不安で仕方ない経験」に近い。
次に行く釣りの準備をしに釣具屋さんに行くのも、船の上で悪戦苦闘するのも、まだ会社に入って新人だった頃、見よう見まねで資料を作ったり、上司のよく分からない指示を先輩に聞きながら進めたりした経験と、ほぼ同じ感覚である。
30代後半、社会人も長くなり、仕事で途方に暮れることが比較的少なくなると、こうした「無力感」を感じる機会が少なくなってくる。もちろん、そのほうが楽だし、仕事で失敗はできないから仕方がない部分もある。だが、同時に貴重な能力である、「学ぶ能力」も低下してしまう。
意識して「教えてもらう側」に回り続けないと、教えてもらうのが下手になってしまうのだ。今の時代、新しいことを吸収できなくなったら、致命的である。いや、教えてもらうのが下手になるだけだったらまだよいかもしれない。最悪なのは、「知的ゾンビ」、要するに学ぶ意志も能力もない、“ごみ”同然になることだ。
結果、自分が教える内容、伝える内容については、「絶対的に正しい」という気持ちが増してくる。そして、だんだんと無意識に「自分は正しい」「もはや、学ぶことはあまりないのではないか?」という風に、思っていってしまう。
その極みが、大組織での事業開発に関する承認側、ビジネスコンテストの審査員、といった、いわゆる「ジャッジ側」に回る行為だ。
こういうことばかりしていると、最終的には以前の記事でも触れた「知的ゾンビ」と化してしまう。おお、こわい……
こうなると、誰も教えてくれないし、指摘してくれない。
そして、最終的には自分の知らないところで駆逐されてしまう。
また、「仕事を引退して肩書がなくなった結果、地域に溶け込めない、プライドの高いオッサン」がやゆされているのを見る。
日本のおじさんの最大の呪縛はこの「プライド」という何とも厄介な代物だ。特に終身雇用、年功序列制度という「タテ社会」の中で、会社勤めの男性は係長、課長、部長……と役職が上がるにつれ、上から目線で話し、敬語で「かしずかれる」ことに慣れていく。
「権力」という空気が、「プライド」という風船を膨らませていくようなものだ。上司らしく振る舞わねばという責任感がいつの間にか、プライドやおごりになり代わっていたりする。
彼らを悪く言うことはできない。なぜなら、彼らは30代後半以降、「失敗すること」を許されてこなかったのだ。
だが、こうはなりたくはない。
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