新型車投入の横須賀線、“通勤電車ではなかった”歴史と「車両交代」の意味杉山淳一の「週刊鉄道経済」(4/5 ページ)

» 2020年06月19日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

軍用強化路線が「便利」と人気に

 第二の転機は1930(昭和5)年だ。電車運転が開始され、東京〜横須賀間は68分。40往復以上が設定された。軍部の需要に応えるために実施した複線電化によって沿線人口が増え、その需要に応えるための電車導入だった。同年、湘南電気鉄道(後の京急電鉄)が浦賀、逗子まで開業した。その競争に対抗するための電車導入でもあった。1931年には湘南電気鉄道に対抗するため新型電車を導入している。

 この時代から横浜・東京への通勤需要が増えていったとみられる。ただし都内の労働者の多くは都内に住んでいただろうから、それなりの地位、所得のある人々だっただろう。横須賀線の電車はこの当時から2等車(グリーン車)を連結していた。それは上級士官向けだったかもしれない。しかし上流階級にとって2等車のある路線の沿線は、住宅としても別荘としても魅力だったに違いない。

 第二次大戦が始まり、戦況が悪化する中で全国の不急不要路線が休止された。しかし横須賀線は逆に久里浜まで延伸を果たしている。軍用路線の使命があったからだ。もともと横須賀線は三浦半島西岸の長井地区まで延伸する構想だった。三浦半島先端が仮想敵の上陸地点に想定されていたからだ。

 戦後の復興、経済成長とともに横須賀線の利用者は増えていく。1951年に導入された70系電車は、乗降扉を片側3カ所とし、扉付近をロングシート、扉間中央をクロスシートとした。通勤者の乗降性と長距離利用者の座席数を維持する座席配置で、後にセミクロスシートと呼ばれ、近郊型電車の定番となった。通勤者比率は上がっていくけれども、まだクロスシートを重視、長距離路線という位置付けだった。

通勤地獄解消のため「SM分離」

 高度経済成長によって郊外がベッドタウン化し、東京から放射状に伸びる国鉄路線は大混雑時代を迎えた。1965年当時、横須賀線の混雑率は264%。東海道本線は171%。このまま対策を実施しない場合、それぞれの混雑率は486%、367%まで上昇する。実際にはそんな人数は乗れないから、乗れない人が多数という状況だ。

 あまりにも混雑するため、川崎駅は京浜東北線と横須賀線直通のみ停車させ、東海道本線の電車は全て通過させるという処置をとっていた。近距離客はなるべく京浜東北線を使ってほしいという意図だったと思われる。

 この混雑を解消するため、国鉄は1960年代半ばから「通勤五方面作戦」を展開する。その中で、横須賀線は第三の転機を迎えた。東海道本線直通を取りやめ、東海道貨物支線経由とした。そのために平塚〜小田原間は貨物線を新設して複々線化、鶴見駅付近を複々線化。戸塚〜鶴見間は貨物線を新設して貨物列車を迂回させる。品川から錦糸町までトンネル区間を作って総武線快速と直通させる。戸塚〜鶴見〜品川間に東戸塚駅と新川崎駅を新設。かなりのチカラワザで、完成は1980年だった。

 この「貨物線で横須賀線直通列車を運行するルート」が「新横須賀線」と呼ばれるルートだ。その後、新横須賀線内では西大井駅、武蔵小杉駅が設置された。なお、東海道本線と横須賀線の分離運転は略称として「SM分離」とも呼ばれる。横須賀線の列車番号の末尾がS、東海道本線の列車番号の末尾がMだったからだ。

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