――多くの日本のミュージシャンが果たせていない米国進出の経緯は興味深いです。
セカンド、サードアルバムのエンジニアは、米国で学生時代を過ごしたギタリスト、ジョージ吾妻さんの人脈から、ダニー・マクレンドンが担当しました。ダニーがラウドネスの演奏力を見込んで米国でのライブを勧めてくれたのですが、実際のブッキングは、ビル・バーカードさんというレコード店の方がしてくれたんですよ。
このレコード店には、世界を代表するヘヴィメタルバンドのメタリカも出入りしていました。また、マニア向けに日本のヘヴィメタルバンドのアルバムや雑誌も輸入していたそうです。
ビルさんが、なぜそういうことを知っていたかというと、音楽評論家の伊藤政則さんと知り合いで、伊藤さんがラウドネスをはじめ、いろいろな日本のバンドのLP(Long Play) レコードを送っていたらしいんです。そこでラウドネスがやたら売れるもんだからレコード店さんが、ラウドネスを米国に呼ぶことになったようです。
たまたま2015年の米ツアーでビルさんと再会することになり、当時のお話も聞きましたが、ビルさんが呼んでくれた最初の西海岸ツアーがなければ、その後の米アトランティックとのワールドワイド契約も成立しなかったかもしれませんからね。日本のバンドとしては初めてのワールドワイド契約でした。
インターネットもない時代ですから、今でいうミニコミ誌「ファンジン(ファンマガジン)」と、世界のマニア同士のネットワークがラウドネスを米国に呼び寄せ、それを体感した音楽ファンが、ラウドネスに対して「世界への扉」を開いたわけです。
――人と人とのつながりが海外展開のきっかけだったんですね。その後も、いろいろな日本のアーティストが世界の市場に挑戦しました。ラウドネスが海外でヒットできた理由は何なのでしょう。
やはり、突出したギター(高崎晃)とドラム(故・樋口宗孝)ですよね。あの2人は、圧倒的に海外のファンに刺さりました。
マディソン・スクエア・ガーデンではモトリー・クルーの前座で、40分くらいのステージなのに、それぞれ10分近くソロをして、大いに盛り上がったそうです。ギタリストといえばAkira Takasaki、ドラマーといえばMunetaka Higuchi。90年代に入っても、世界で知られた日本人アーティストは坂本九、坂本龍一、そして高崎晃でしたね。
――インターネットもありませんでしたから、日本では米国の音楽シーンがどうなっているかをリアルタイムではつかめなかった。そんな中で米国には、実力のある日本のバンドの情報が届いていたんですね。
先にも話しましたが、ヘヴィメタルのネットワークは強力ですからね。ミニコミ誌のファンジンをはじめ、米国ではいろいろな種類のフリーペーパーが流行っていて、メタルに特化したものが、マニアの情報源になっていたと聞いています。
――そんな雑誌があったんですね。現在は新しいバンドや曲を知る情報源はSNSやYouTubeに置き換わってしまいました。当時ヘヴィメタルのマーケットは、日本ではどの程度だったのですか。そして現在はどうなんでしょう?
もともとラウドネスがデビューするまでは、日本のメタルというマーケットは大きくはなかったと思います。その後、いわゆる「ジャパメタ」ブームがあり、90年代に「ビッグ・イン・ジャパン」(編注:「日本でしか売れていない洋楽ミュージシャン」を表す俗語)と言う言葉があるくらい「洋楽メタル」のCDも売れていましたし、多くのバンドが来日していました。
今でも『BURRN!』というヘヴィメタル専門誌がありますし、ヘヴィメタル音楽評論家の伊藤政則さんのラジオもあります。そういう人たちは隅々まで情報を見て聞いて集めますから、強固なファン層は存在しますね。
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