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佐々木俊尚に聞く エンジニアの「キャリア自律」のために必要なこと(1/2 ページ)

» 2024年03月04日 10時30分 公開
[田中圭太郎ITmedia]

 フリーランスのITエンジニアと企業をつなぐエージェント事業を展開しているPE-BANK(東京・港区)は、企業に所属するエンジニアの「キャリア自律」を支援する福利厚生サービス「Pe-BANKカレッジ」を2023年11月から提供している。サービス開始にあたって、「キャリア自律」などをテーマにしたトークセッションが開催された。

PE-BANKは福利厚生サービス「Pe-BANKカレッジ」を提供(左から佐々木俊尚氏、PE-BANK髙田幹也社長、同社の高山典久常務取締役 、法政大学キャリアデザイン学部の梅崎修教授)

 このトークセッションにモデレーターとして登壇したのが、作家・ジャーナリストの佐々木俊尚氏だ。多数の著書がある佐々木氏は、新聞社と出版社での勤務を経て41歳の時に独立。まだ日本で「ノマド」の言葉が知られていなかった09年に『仕事をするのにオフィスはいらない〜ノマドワーキングのすすめ〜』(光文社新書)を出版するなど、自分自身で人生を切り開かなければならない時代を予見し、自由な働き方や自律的なキャリア形成を提唱してきた。

 佐々木氏に自らのフリーランスとしての働き方の変遷や、エンジニアが「キャリア自律」を実現するために何が必要なのかを聞いた。

佐々木俊尚(ささき・としなお)作家・ジャーナリスト。1961年兵庫県生まれ。毎日新聞社、アスキーを経て2003年に独立。テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆。『この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力』(徳間書店)、『AIの未来からビジネス活用術まで ChatGPTについて佐々木俊尚先生に聞いてみた』(Gakken)、『現代病「集中できない」を知力に変える 読む力 最新スキル大全:脳が超スピード化し、しかもクリエイティブに動き出す!』など著書多数

21世紀に入って劇的に変わった雇用情勢

――『仕事をするのにオフィスはいらない』を書かれた09年ころ、ノマドワーキングをめぐる状況はどうでしたか。

 あのころはリーマンショックが起きたことで、米国などでは会社をクビになって就職もできないので、仕方なくフリーランスになるしかない状況がありました。いかにコストを抑えるかを考えて、オフィスを持たないノマドワーキングが出てきたところでした。

 でも、日本ではそんな風潮はまだありませんでしたね。『仕事をするのにオフィスはいらない』を出版した時、「佐々木さん、こんなことが実現するわけがないでしょう」と散々言われました(笑)。それが、10年後にコロナで実現してしまったという、うれしいような悲しいような、不思議な感じがしています。

――雇用をめぐる情勢も、大きく変わりましたよね。

 2000年以降のグローバリゼーションや、小泉改革による派遣法改正などの影響で、終身雇用はだんだん終わっていくと言われてきました。実際に、その後の20数年で雇用情勢は劇的に変わり、非正規雇用は労働者全体の4割を超える状況です。今の20代や30代の若い人に聞くと、一生この会社にいると思っている人はほぼいません。

――佐々木さんは1999年、38歳の時に毎日新聞社を辞めています。その大きな理由はなんだったのでしょうか。

 あの頃は40歳が転職限界年齢だと言われていました。しかも、どこの会社もそうだと思いますけど、40歳くらいになるとデスクとか人事とか、総務部門などに立場が変わっていくので、それがちょっと嫌だなと思っていました。同時に、当時はネットバブル華やかなりし頃で、楽天やサイバーエージェント、堀江貴文さんのオン・ザ・エッヂなどが元気だったので、ああいう業界と付き合う方が仕事としては面白いかなと思ったのも大きな理由です。

 経済部ではなく事件記者だったのですが、思い切って転職しました。アスキーで3年ほど勤務して、フリーランスになったのは41歳の時です。

――働き盛りの年齢で新聞社を辞めたことについて、上司などからの反応はどうだったのでしょうか。

 「現役の新聞記者で辞める奴は、お前が10年ぶりくらいだ」みたいなことを言われました。でも、新聞社の昔の仲間に話を聞いてみると、今はものすごい人数が辞めています。しかも、新聞社から別の新聞社に転職するのではなく、コンサルタントなど別の業界に行くのが当たり前です。PE-BANKや僕らは、21世紀は終身雇用が衰退するので、自律的なキャリア形成が必要になると提言してきました。それが、ようやく現実になってきた感じがしますね。

新しい情報や技術が出てきたらまず詳しくなる

――佐々木さんはフリーランスになって以降、どのようにキャリアを築かれてきましたか。出版不況になっていった時期と重なりますが、どのように乗り越えてきたのでしょうか。

 キャリアの自律は、従属する先を増やすことみたいな言い方をしますよね。別にベストセラー作家でもないので、1本立ちをするというよりも、仕事を増やしていったことの方が大きいのではないでしょうか。

 出版不況と言われ始めた2010年頃までのフリーランサーは割と楽でした。雑誌がたくさんあって、連載だけでも月に6、7本あって、毎日のように締め切りがありました。1本の単価が5万円なら月100万円以上になるので、普通のサラリーマンくらいの給料は軽く稼げていましたね。

 ところが、雑誌がどんどんなくなり、原稿料の単価も下がり、食べていけなくなる状況になってきました。それから、編集者とだけ付き合ってひたすら取材して書く日々から、どうやって食べていくかを考えて、スタートアップに出資したり、自分でメルマガを出したり、複数のビジネスを立ち上げたりしています。失敗を少ししながらも手を広げていったのが、この10年間にやってきたことですね。

――それは、佐々木さんのやってきたことが、世の中の流れと調和していたと言えますか。

 ヒットアンドアウェイというか、腰が軽いというか、いろいろやってみて駄目ならすぐ手を引くけど、やれそうならどんどん手を伸ばす。試して繰り返すことを延々とやってきました。それだけですよ。新しいウェブのサービスが出てきたらすぐにアカウントを取る、新しいメディアが出てきたらすかさずチェックするというレベルの話です。今ならChatGPTの情報を大量に収集するなど、新しい情報が出てきたらまず詳しくなることですね。

――新しい情報に対して、いかに俊敏に対応するか、ということですか。

 この10年から15年の間、取材の意味を考え直すようになりました。きっかけは2011年の東日本大震災です。発生した3月の終わり頃に気仙沼市を取材したものの、それまで行ったことがなく、震災前の町の姿も知らないので、いきなり行っても何も分からず途方に暮れました。その一方で、もともと住んでいる人がYouTubeやTwitter(現X)で多くの情報を流していて、取材しても全く太刀打ちできませんでした。SNSの情報量がすごい勢いで増えていた頃だったこともあり、取材とは何なのかと考えるようになりました。

 例えば、シリコンバレーに取材に行っても、3泊4日では会える人は限られています。でも、英語のメディアまで含めると、シリコンバレーに関する大量の情報がウェブ上で手に入りますので、そちらをチェックする方が、コスパとしては良いわけです。事件記者だったのでインタビュー力などを売り物にして2000年代は仕事をしていましたが、もうそうではなくて、全ての基本は情報力でしかないだろうと気付きました。それ以来、この10年くらいは、大量の情報を収集して選別することにある意味で全力を尽くしています。1日の仕事時間の3分の1くらいは、情報収集に費やしていますね。

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