下北沢が「若者の街」として認識され始めたのは、1970年代ごろからだ。1975年にはライブハウスの下北沢ロフトがオープン。1982年には本多劇場が誕生し、バンドマンや演劇人が集うようになる。
そんな下北沢の魅力は、小さな路地がひしめき、個性的な商店や飲み屋が集まっていること。バンドマンや演劇人はそこに集まり、芸術談義に花を咲かせた。ただ、それが街の魅力につながる一方、防災面や利便性の低下も指摘されていた。
特に問題となったのは、交通の利便性の低下だ。駅周辺の「開かずの踏切」は有名で、1時間のうち40分以上は遮断機が下りていることもあったという。こうした事態を受け、2000年代初頭に小田急線の地下化の議論が持ち上がり、それとともに東京都は幅26メートルにわたる巨大な道路を作ると発表した。
しかし、これに地元住民や下北沢にゆかりのある文化人たちが反対した。下北沢の利点は街歩きのしやすさであり、大きな道路を作ることによる回遊性の低下を懸念してのものだった。この反対運動は行政訴訟も引き起こし、地元住民らの粘り強い交渉の末、東京都は計画を一部取り下げた。
その後、小田急線が地下化された後に誕生したスペースの再開発は、地元住民と小田急電鉄による「北沢PR戦略会議」(現在のシモキタリングまちづくり会議)での徹底した話し合いの中で進められ、先ほど説明した「下北線路街」の元になった。近年の再開発にしては珍しく、高層ビルが建設されていないのは、こうした話し合いの中で、地元住民の意向が計画に多分に反映されたからだ。
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