こうした中、すでに大きな顧客基盤を持つ既存のSaaS企業は、AIネイティブへと転換できるのか。橘CEOの答えは条件付きのイエスである。
橘CEOが引き合いに出したのは米国のセールスフォース社だ。
同社が中核となるAI製品を自律型AI「Agentforce」へと刷新し、マーケティング投資の大半をそこに振り向けている大胆な姿勢に触れ「それぐらいやれば、従来型SaaSからの転換も可能だと思う」と語る。
ただし、その前提は「社名を変えるぐらいに変化する」覚悟があること。実質的にはAIの会社に生まれ変わるということであり、従来のSaaS事業を捨てるほどの決断を伴う。
「片手間で、従来型SaaSの2割ぐらい新規事業チームでAIを作る、そんなのでは全く追い付けない」──橘CEOがこう断言する背景には、上場企業の経営構造への理解がある。橘CEO自身、弁護士ドットコムの取締役としてクラウドサインの事業を率いた経験を持つ。上場企業が直面するジレンマを肌で知っている。
「上場企業は今、利益が求められている。新しい投資をするなら営業利益を下げなければならない。そんな意思決定ができる社長はほぼいない」
仮にAIへの大規模投資を宣言すれば、短期的には利益率が悪化する。「今更100億円AIに投資しますと言ったら、株価が暴落する。できないと思う」
既存事業に最適化された経営構造が、新しい投資の意思決定を阻む。クリステンセンが『イノベーションのジレンマ』で描いた構図そのものである。
一方、スタートアップにはこの制約がない。PeopleXは2024年のシードラウンドで16億円超を調達し、累計の資金調達額は約24億円に達している。
「われわれは利益ゼロの赤字でもいいから、調達した資金を全部AIに突っ込める。失うものがない」と橘CEOは言う。上場企業が大きな投資に株価への影響を恐れて踏み出せない一方で、スタートアップは調達した数十億円を丸ごとAIに振り向けられる。この非対称性が、資金力や人員では劣るはずのスタートアップが先行する構造を生んでいるというのだ。
橘CEOの視線は、HR領域のさらに先に向いている。
「従来SaaSは台帳の代替。管理部門が取り扱うレコードに価値があった。でも会社の管理部門の仕事なんて全体の5%ぐらい。はるかに多い営業や接客といった仕事はまだ手つかずだ」
従来型SaaSがカバーしてきたのは、企業活動のごく一部に過ぎなかったということである。営業、接客、コールセンターといった人と人が話す仕事や、弁護士や医師といった専門家の業務は、広大な空白地帯として残っている。
PeopleXが最初の主戦場としてHR領域を選んだのは、面接という「人と人が話す仕事」の中でも最も難度の高い領域だったからだ。橘CEOは「面接という一番難しいもので今PMFさせている」と自信をみせる。技術的な難度に加え、人事のプロフェッショナルに売り込むビジネス面の障壁も高い。
この技術的ブレイクスルーを可能にしたのが、2024年秋に実用化が進んだマルチモーダルAIである。テキストだけでなく音声や動画を認識・生成できるようになったことで、対話という人間の仕事の中核領域にAIが踏み込めるようになった。橘CEOはこれを生成AIによる「第1のブレイクスルー」と位置付ける。
今後の展開として、PeopleXはAI面接、AIロープレ、AI面談の3製品を統合して「エージェンティックHRプラットフォーム」へと進化させる計画だ。面談で社内のカルチャーや課題を把握し、それに適した人材をAI面接で判定するという統合的な仕組みを目指している。その先にはインサイドセールス、コールセンター、専門家領域への展開が控える。
「今既に、地殻変動は水面下で起きている」と橘CEOは語る。ただし、従来型SaaSの成長鈍化やAIネイティブ企業の躍進が、一般の個人投資家にも見える形でIR資料に表れてくるまでには、あと1年ほどかかるとみる。
創業から2年で営業キャッシュフローが黒字──「SaaS時代ならありえない」。橘CEOはそう言い切った。
「SaaS」は本当に死んでしまうのか Anthropic「Cowork」が与えた衝撃
「正直、何を言ってるのか──」 SmartHR社長が斬る“SaaS is Dead”論の致命的な勘違い
「SaaSは死なない」 AIの弱点を冷静に見据えた、LayerXの成長戦略とは?
既存SaaSは“食われる側”にいる──AI時代の新しい稼ぎ方とはCopyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング