「この不具合なら、まずはあの図面を見るべきだ」――。数十年前に製造され、インフラを支え続けてきた部品を前に、ベテラン技術者は感覚的に正解を導き出す。
ベテランの頭の中にあるのは、マニュアルには書かれていない「勘」という名の暗黙知だ。これは長年の経験が導き出すものといえる。しかし今、この職人技が継承されずに、国内の製造業全体が「静かな危機」に直面している。
前編記事【製造現場の「AIアレルギー」をどう払拭? 日立・新卒デジタル人材「3カ月奮闘記」】では、日立製作所・水戸事業所に飛び込んだ新人データサイエンティストの禹周賢(ウ・ジュヒョン)さんが、現場の「AIアレルギー」を払拭し、1時間の調査業務をわずか5分に短縮するまでの奮闘をレポートした。
続く後編では、職人本人が無自覚な「勘」の知識を、いかにして解剖したのかに迫る。現場(下流)で得た客観的なデータを、次のモノづくり(上流の設計)へと還流させていく、日立の「フィジカルAI」戦略を、現場のDXに挑んだ禹さんと、受け入れ先の担当者に聞いた。
禹周賢(ウ・ジュヒョン)大学では医療・生物分野の研究を中心に、データ活用・解析を学んだ。2025年、日立製作所に入社。デジタル事業開発統括本部 Data Studio デジタルアナリティクス推進部にデータサイエンティストとして配属。配属後は、顧客の生成AI導入に関する案件やPoCに従事(以下撮影:河嶌太郎)世界的に注目を集める「フィジカルAI」。現場のデータをAIと掛け合わせるこの領域において、日本の製造業には大きな勝機があると言われている。日本企業には長年、現場で地道に蓄積されてきた「圧倒的な質と量のデータ」という基盤が存在するからだ。
日立は机上のデータ分析にとどまらず、現場の課題を肌で知るAI人材を育成するため、新人データサイエンティストを3カ月間工場に配属する独自の研修プログラム「モノづくり実習」を展開している。この実習で水戸事業所の品質保証部門に配属された禹さんも、現場に眠るデータの価値を評価する。
「日本企業のフィジカルAIの強みは、地道に蓄積してきたデータの量が多く、質も高い点にあります。ですが現場のデータを、そのままAIに活用できるわけではありません」
水戸事業所では、新幹線や国内外の鉄道システムを支える制御装置を製造している。同事業所の鉄道部品は、30年以上の長期間にわたって使用されることもあり、顧客から戻ってくる返送品の調査には、ベテランの経験則が不可欠となっている。
品質保証部門が抱えていたのは「データの質にばらつきがある」という課題だった。鉄道部品の返送品調査に関する報告書は、データ化されてはいたものの、その内容は極めて属人的なものだったのだ。
品質保証本部の前田慶介部長は、データの粒度の問題について「人によってかなり詳しく書く人もいれば、詳しく書かない人もいる」と、担当者によって書き込み度合いが全く異なっていた実態を明かす。記載の粒度がバラバラでノイズが多く、検索や分析が難しい状態にあったという。
品質保証本部の愛甲隆史さんも「顧客からの返送品に対し、故障部位を特定して、いかに原因を究明するか。そこがわれわれの業務の入り口となります。この判断をベテランの経験則から、AIという形式知へ変えることが急務でした」と振り返る。膨大なデータから必要な情報を引き出す作業そのものが、大きな負担となっていた。
さらに深刻だったのが、「暗黙知」を言語化する壁だ。ベテラン技術者は「この不具合なら、まずはあの図面から見るべきだ」といったノウハウを感覚的に持っている。だが、それらは文章化されていないものだ。経験の浅い若手は、情報を探すだけでも迷子になってしまう。
前田部長は「ベテランの暗黙知をいかにして言葉として引き出すか。そして、それをナレッジとして蓄積して活用するか。これがわれわれや鉄道業界が生き残っていくための課題」と語る。暗黙知の形式知化は急務だった。
そこで禹さんは、言葉にされていないノウハウを、データとして抽出し、生成AIに落とし込む作業に取りかかる。だが「現場の人に直接『ここの暗黙知って何ですか?』と聞いても誰も分からなかったのです」と振り返る。暗黙知は本人ですら無自覚な習慣や経験則によって導き出されているため、ストレートに質問しても答えは返ってこないのだ。
そこで禹さんは、膨大な過去の報告書をひもときながら「業務フローのどこを暗黙知と定義して、どうヒアリングしていくか」という根本的なプロセスの構築から泥臭く模索していった。
今回の取り組みの真骨頂は、熟練者が無意識に行っている「判断の行間」を読み解いたことにあるという。「この不具合ならこの図面を見る」というベテランの直感を、過去の膨大な報告書と照らし合わせ、論理的なデータへと変換した。これは「暗黙知の解剖」とも言える作業だった。
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