「AIに何ができるのか分からない」――。伝統的な製造現場に、新しいIT技術を持ち込む際、最大の壁となるのがこうした現場の戸惑いだ。
日立製作所は、AIやデータ解析の専門スキルを持つ新人データサイエンティストを、製造現場へと送り込んでいる。2021年から展開する独自の研修プログラム「モノづくり実習」では、新人データサイエンティストをモノづくりの現場に3カ月にわたって配属。作業員へのヒアリングを通じた課題発見から、データの標準化と分析、さらには現場の実態に即した解決策の提案までを一貫して担わせる。
この施策には、机上のデータ分析にとどまらず、現場との対話を通じて組織を動かす「ビジネス力」や「提案力」を備えた、日立ならではの「IT×OT(制御・運用技術)×プロダクト」を活用できる人材を育成する狙いがある。2025年度の同実習は、新幹線や国内外の鉄道を支える制御装置を製造する水戸事業所の品質保証部門で実施した。
日立は、いかにして現場の「AIアレルギー」を払拭し、現場とのコミュニケーションを通じて業務時間を短縮する生成AIツールを定着させたのか。「現場密着型DX」の実践プロセスについて、実習に参加した若手女性データサイエンティストの禹周賢(ウ・ジュヒョン)さん(デジタルアナリティクス推進部)と、受け入れ先の現場担当者にインタビューした。
禹周賢(ウ・ジュヒョン)大学では医療・生物分野の研究を中心に、データ活用・解析を学んだ。2025年、日立製作所に入社。デジタル事業開発統括本部 Data Studio デジタルアナリティクス推進部にデータサイエンティストとして配属。配属後は、顧客の生成AI導入に関する案件やPoCに従事(以下撮影:河嶌太郎)水戸事業所の品質保証部門が直面していた大きな課題の一つは、鉄道事業者から不具合として戻ってくる「返送品」の調査業務だった。鉄道部品は長期間使用されるため、時には30年前の古い部品が戻ってくることもある。しかし、過去の図面や報告書は保存ルールが統一されておらず、ファイル名や記載の粒度も人によってバラバラで、データが散在している状態だった。
現場で実習生を受け入れた品質保証本部の愛甲隆史さんは、当時の苦労を「散らばった資料を確認しに行って、中身を見るという作業の繰り返しだった」と振り返る。1回の調査で数十件にも及ぶ報告書に目を通し、必要な情報を探し出すだけで1時間以上かかることも日常茶飯事だった。この調査業務を効率化し、顧客にいち早く原因を報告して製品を返すことが、品質保証部門の長年の悲願だった。
この課題に対し、モノづくり実習生として派遣された禹さんは、生成AIを活用した解決策を模索する。過去のデータをAIに読み込ませ、必要な情報を瞬時に引き出せる探索ツールを開発しようとする試みだ。しかしプロジェクトを始めた当初、障壁となったのはテクノロジーに対する現場との認識のズレだった。
愛甲さんは「生成AIツールがあることは知っていたものの、使い方がよく分かっていなかった」と、当時の率直な戸惑いを明かす。同部門の前田慶介部長も「今まで自分たちが書いてきた言葉をAIが拾えるのだろうか。期待と同時に恐らく難しいのでは……と思っていた」と振り返る。現場にはAIに対する「半信半疑の空気」が漂っていたのだった。
禹さんも、この見えない壁に苦心することになる。
「現場の方々は『AIに何ができて何ができないのか』ということが明確でない状態で、認識が合いませんでした。テキストや資料だけで説明するのは、とても難しかったですね」(禹さん)
そこで禹さんが取った行動は、現場に深く入り込むことだった。現場の作業員と机を並べ、紙とペンを手に取り「この時はどう動くのか」と一つ一つの業務フローを泥臭く書き出した。現場と「同じ目線に立つ」姿勢が「外部からの分析者」だった禹さんを、現場の「仲間」へと変えていったのだ。
「現場にいるからこそ、何度も足を運んで説明し、一つ一つのフローを整理して『これは間違っている』『これは合っている』と確認することができました」(禹さん)
ヒアリングを進める中で、業務の呼び方やタスクの定義が担当者によって異なり、暗黙のルールの下で属人的に業務が進行している実態も浮き彫りになった。
禹さんは「人によってタスクを実行するタイミングや方法が違っていたので、それをフロー化し、構造化するところが難しかった」と当時の苦労を語る。
最先端のAIを導入して現場に定着させるためには、まず現場で使われている言葉やプロセスを泥臭く整理し、構造化する作業が不可欠だった。禹さんはこのプロセスを通じて現場との対話を重ねていく。
現場の言葉やプロセスを構造化した禹さんは、いよいよ生成AIを用いた独自の「情報探索ツール」の開発に着手した。禹さんが目指したのは、単なるキーワード検索システムではない。現場の意図を汲み取り、必要な資料を優先度順に提示して要約する仕組みだ。
その開発過程で禹さんが腐心したのは、現場の熟練者が持つ暗黙知をいかにしてAIに落とし込むかだった。
「単純に現場の方に『どれが優先度が高いですか?』と聞いても、答えは出てきません。そこで十数件の報告書を私の手元で準備し、『この顧客の場合はこれが先』『この不具合の場合はこれ』といったように判断のプロセスを一つ一つ文章化していきました」(禹さん)
現場のリアルな業務フローに即して設計したこのツールは、大きな成果をもたらした。従来、問い合わせがあるたびに1時間以上かけて40〜50件の報告書を開き、中身を確認していた情報収集作業を、わずか「5分」にまで短縮したのだ。
そして禹さんは、この結果に満足するだけでなく「現場の日常業務で本当に機能するか」を、定量的に検証するというステップを踏んだ。開発したアプリ内に、現場担当者の質問とAIの回答を、自動的にログとして収集する機能を実装し、実証実験を実施したのだ。
現場の担当者6人に実務を想定した約50問のテストを実施したところ、AIの回答の87%が「有用」だと評価された。 禹さんによるこの定量的な検証が、AIへの信頼を促したのだ。
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