海外で橋を架ける“想い”――新日鉄エンジニアリング・浅井信司氏(中編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/2 ページ)

» 2008年02月23日 10時57分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]
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「社内ベンチャーのカリスマ」誕生秘話

 「東北タイ向けODA無償案件を大手商社が持ってきたんですが、弊社には国内橋りょうセクションしかなく、そうした海外橋りょう案件を手がけるチームがなかったんですよ。『チャンスだ』って思いましたね。それで、すかさず『やらせてください!』と言ったんです」

 しかし、海外ビジネスの経験のなかった浅井氏の希望がすんなり通ったのだろうか?

 「いや〜、上司はもちろん、社内のあちこちから猛烈な反対の声が巻き起こりましたよ。まさに四面楚歌でしたね。でも、この機会を逃したら2度とチャンスはないかもしれないと思って、我ながら異常な執念で粘り続けました」

 その甲斐あって、浅井氏は晴れてこの案件を担当できることになった。

 しかし、条件は厳しかった。「現在の業務(国内橋りょう営業)に支障がない限り、勝手にやっていい。その代わり、失敗したら自分で責任を取れっていう話なんです」

 結局、浅井氏はその条件を承諾する。9時から5時までは「国内営業」に従事し、終業後に社内ベンチャーとして「海外営業」に取り組むという1人2役の生活が始まった。お盆もクリスマスも正月も関係ない。もちろん、海外出張は土日祝祭日が中心だ。

 仕事はきつかったが、「途上国のインフラ整備に貢献したい!」という、学生時代からの熱い思いがついに実現したのだ。ここから彼の快進撃の歴史が始まる。主要な海外受注契約は次の通りだ。

案件
1989年 東北タイ地方開発橋りょう
1992年 カンボジア チュルイチョンバー橋
1993年 パキスタン北西辺境州橋りょう
1998年 スエズ運河架橋
1999年 韓国広安大橋(ケーブル)
2002年 潤揚大橋(ケーブル)、新タコマ橋(ケーブル)
2003年 カントー橋、第2マグサイサイ橋、中部ルソン高速道路
2005年 香港ストンカッター橋(ケーブル)
2006年 ウズベキスタン グザール鉄道橋、第2仁川大橋(ケーブル)

「思い出」の仕事、「人知れぬ苦労」とは?

カンボジアでチュルイチョンバー橋の工事に携わっていたころの浅井氏。当時32歳

 海外でたくさんの橋を架けてきた浅井氏。中でも一番思い出深いのはどれなのだろう? 

 「やっぱりカンボジアのチュルイチョンバー橋ですね。もともとこの橋は、日本が戦後賠償の一環として建設したものだったんですが、カンボジア内戦で破壊されてしまったのです。それで再建しようということになりまして。

 私自身、現地に6カ月以上いて工事に立ち会っていたんですが、『復興に貢献できているなあ!』という実感は、何物にも代え難い喜びでしたね。金もうけだけ考えてもつまらない。途上国の復興・インフラ整備に貢献したいという初志を再確認できたという意味でも、とても印象深い仕事でした」

 その思いはカンボジアの人々も同じだったのだろう。前編でも述べたように、このチュルイチョンバー橋は、カンボジアの紙幣にも印刷されたのである。


カンボジアの紙幣に印刷されたチュルイチョンバー橋。今も現地の人々に「日本橋」と呼ばれ愛されている

 しかし、何年にもおよぶ獅子奮迅の活躍。その陰には、かなりの苦労があったのではないだろうか? そう聞くと、彼は苦笑しながらこう答えた。

 「個人的なことで言えば、痔で入院し、手術したことでしょうか……」

 発展途上国の橋の建設現場は、へき地にあることが多い。空港からジープで何時間も揺られることを繰り返し、さらに、東南アジア特有の辛い食事と強い酒。ついに重症の痔を患い、入院を余儀なくされたという。

 こうした苦労を味わいながらも浅井氏が続々と海外案件を受注した1990年代、日本国内はバブル崩壊後の「平成大不況」に沈んでおり、大型橋りょう案件は期待し得なくなっていた。上記のスエズ運河架橋(後に「ムバラク・ピース・ブリッジ」と命名)を受注した頃には、「海外橋りょう」が「国内橋りょう」の受注量を上回るようになっていたという。

 社内の猛反対を押し切って始めた「社内ベンチャー」は立派に一人前に成長した。そしてちょうどその頃、浅井氏は、日本産業史にその名を残す業績を挙げる。

アジア通貨危機――新しい円借款制度を提案

 1997年、アジアを未曽有の通貨危機が襲い、アジア各国の産業界は混乱・疲弊した。

 それまで(1985年の「プラザ合意」以降)、円借款ODA案件については、現地企業など外国企業が受注するシステムになっていた。

 しかしこの時、アジア各国の現地経済は壊滅的な状況にあり、身動きの取れない状態にあった。「こうした予期せぬ環境変化を目の前にして、自分はどうすることで途上国の現地経済に貢献できるだろうって考えたんですよ」

 そして出てきたアイデアがその後の日本の円借款制度の歴史を大きく塗り替えることになったのである。

 「日本企業であれば、壊滅状態の現地企業と異なり、与信力もあるし、世界に誇れる技術の安定的な移転も可能だと。それで、円借款案件について、日本企業が受注することで現地経済を救うことができるのではないかと考えたんですよ」

 この新しい円借款制度の提言は、1998年「特別円借款制度」として結実し、制度化される。さらに同年、浅井氏の過去9年に及ぶ孤軍奮闘が遂に新日鉄上層部に認められ、海外橋りょうの「社内ベンチャー」は、正式に「部門」として制度化され、彼はその初代リーダー(室長)に就任した。

 2001年には、この98年に受注したスエズ運河架橋「ムバラク・ピース・ブリッジ」が遂に完成し、その開通式に彼は橋本龍太郎・元首相とともに日本代表として出席する。

 遠くを見るような眼差しで、浅井氏はその時のことを振り返る。「感激でしたねー! 桁下の高さが70メートルもあって、その下を大型船舶が悠々と航行してゆくんですよ」

 「でも、例の『9・11同時多発テロ』から2カ月後でしたからね。常識的には渡航を自粛するような状況で、あの時はまさに命がけでした……」

スエズ運河にかかるムバラク・ピース・ブリッジ(エジプト)
ムバラク・ピース・ブリッジの工事中写真

 さらに時は流れる。2004年秋から2005年にかけ、国内橋りょうをめぐって談合事件の摘発が行われ、日本の経済界に激震が走った。新日鉄にとってもきわめて重大な事件だったが、それを横目に見ながら、浅井氏の率いる海外橋りょう部門の快進撃は続いていた。

 そして2008年。カントー橋崩落の余波の中で、浅井氏と彼が率いるチームは、一体どこに向かおうとしているのだろうか?(後編に続く)

嶋田淑之(しまだ ひでゆき)

1956年福岡県生まれ、東京大学文学部卒。大手電機メーカー、経営コンサルティング会社勤務を経て、現在は自由が丘産能短大・講師、文筆家、戦略経営協会・理事・事務局長。企業の「経営革新」、ビジネスパーソンの「自己革新」を主要なテーマに、戦略経営の視点から、フジサンケイビジネスアイ、毎日コミュニケーションズなどに連載記事を執筆中。主要著書として、「Google なぜグーグルは創業6年で世界企業になったのか」「43の図表でわかる戦略経営」「ヤマハ発動機の経営革新」などがある。趣味は、クラシック音楽、美術、スキー、ハワイぶらぶら旅など。


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