ロボット工学を「究極の人間学」として問い直し、最前線の研究者にインタビューした書籍「人とロボットの秘密」(堀田純司著、講談社)を、連載形式で全文掲載します。
バックナンバー:
第3章-1 子どもはなぜ巨大ロボットが好きなのか ポスト「マジンガーZ」と非記号的知能
第3章-2 「親しみやすい」ロボットとは 記号論理の限界と芸術理論 中田亨博士の試み
第4章-1 「意識は機械で再現できる」 前野教授の「受動意識仮説」
第4章-2 生物がクオリアを獲得した理由 「受動意識仮説」で解く3つの謎
第5章-2 機械が生命に学ぶ時代 吉田教授の「3つの“し”想」
第6章-3 人の心を微分方程式で書けないか 高西教授の「情動方程式」モデル
←前回「最終章-2 近づく攻殻機動隊の未来 ネットの発達と人の心」へ
これはアメリカの神経科学者、V・S・ラマチャンドラン氏の『脳のなかの幽霊』という本で紹介されている実験で、人間の身体イメージがいかに簡単に書き換えられるかを示している。他にも「右手を伸ばして人の鼻を不規則に叩き、それに合わせて自分の鼻を左手で叩く」──この場合は、右手の先まで自分の鼻があるように感じる人が出てくる──「人が机を叩き、一方見えないようにしながら同じリズムで自分の右手を叩く」──この場合は驚いたことに、机にまで自分の感覚が投射される──といった事例を示しているが、人間の脳は、ゴムの手であったり、机であったりしても、案外簡単に自分の身体イメージを書き換えてしまい、自分の体だと感じてしまうのだ(臨死体験で語られる体外離脱体験も、身体イメージの書き換えの例だろう)。
こうした知覚の原理についてラマチャンドランは「外部から統計的な相関を抽出して、暫定的に有用なモデルをつくり出している」と表現している。
アリストテレスが言う「形相」のように、強固な身体イメージがまず存在し、そのイメージに基づいて感覚を判断するのではなく、入力された感覚次第では、むしろ身体イメージのほうを書き換えてしまうのだ。
だからもし、人間同様にふるまう機械ができて、人間がそのセンサーの情報をリアルタイムに獲得しながら機械を操作するようになると、思ったより簡単に、自分の身体イメージは拡張され、そのボディを自分の体であると感じるのではないかと思う。ヴァーチャルリアリティ技術の体験から類推すると、実際にはごく自然に自分の魂の座が機械に移ったかのように感じると予想する。
そうなると『装甲騎兵ボトムズ』のアーマード・トルーパーのように、こだわりなくボディを次々と乗り換える人もいれば、機械のボディを細かくカスタマイズし、リアルの肉体と同じように唯一無二の存在とする人も現れるだろう。
その機械の体が、ネット上での自己表現キャラクター「アバター」の子孫であると考えると、自分自身のアイデンティティと密接に結びついていくに違いない。その体はテキストや音声で情報を伝達するだけではない。中田博士が研究するように、体そのものを使って感情を表現することだろう。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、ある機体の専属操縦者が他の機体に乗り込んだ際に、「碇君の匂いがする」とつぶやいていた。将来、他人の専用義体を借りたとき、同じように感じるかもしれない。またきっと、同時にリアルの自分の体と義体の両方をあやつってみせるような“達人”も登場するに違いない。聖徳太子なら一度に10体操れるかもしれない。
ここで忘れてはならないのは、永井豪氏の指摘である。人間はこの体だからこそ、人間らしい心を持つのである。鉄の体を持ち、10万馬力を持っていれば、その体にはまったく違う心が宿るだろう。だから、機械の身体の登場によって、人間が肉体から解放されていくと、それにともなって人間の心も、自然に変容していくに違いない。
だから人型の機械の開発は、パートナーロボットが街や家庭で動きはじめるというヴィジョンを提供するだけではない。それだけではなく、その機械が人型であるがゆえに、人間の身体イメージをも、大きく変えてしまうことになるだろう。
今まで当たり前にあった人間の身体に関する制約──たとえば人間は同時にふたつの場所に存在することはできないとか、人間の体は唯一無二であるといった制約から解放されてしまうかもしれない。そのときには人間の心の形もまた、大きく変わってしまうだろう。
前野教授は、その著書『錯覚する脳』で、自らのアイソレーションタンクにおける感覚遮断体験について詳細に記している。アイソレーションタンクとは、人間が浮かぶ程度の比重を持った液体で満たされ、そして音や光を遮断したタンク。この中に入ることで人は、光、音、皮膚感覚などの体感覚情報を遮断し、擬似的に「体はなく、あるのは脳だけ」という状況を体験することができる。アメリカの脳科学者、ジョン・C・リリー氏が開発し、その体験がケン・ラッセル監督の映画『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』(79年)のモデルとなったことで知られる装置である。
教授は「クオリアとは錯覚である」という説を検証するために、感覚遮断を自ら体験したのだが、工学者がアイソレーションタンクに入るというその試みは「もし機械の体が実用化され、人間が肉体から解放されたら」という時代を先取りしているようで面白い。いうまでもなく、機械の身体を実現するためには教授の触覚ディスプレイの研究はとても重要である。
ジョージ・バークリという経験論者は、人間の感覚の中で、視覚と触覚を重視していた。その理由が前野教授の研究を知った今ではよく理解できる。触覚はもっともプリミティブな感覚だけに、脳と感覚の解明の手がかりとして重要なのだ。
そしてさらに技術が発達すると「機械の生命化」が進行し、吉田教授の設計論、生物がDNAを持つように、「自分とはこのような存在である」というアイデンティティを持った機械の開発が進み、やがては機能としての意識が実現するだろう。筆者もまた、きれいな夕日を見れば「ああきれいだなあ」と反応するという機能としての意識が実現すれば、それは充分に意識であると感じているが、やがては、そこでありありとした「夕日の美しさ」、つまりクオリアをも伴う現象としての意識も、ニューラルネットワークを駆使して実現するかもしれない。
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