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連邦議会議事堂襲撃事件から見える「SNSの時代」を総括する SNSから締め出せばそれでいいのか?(3/3 ページ)

» 2021年01月13日 11時35分 公開
[西田宗千佳ITmedia]
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SNSがなくなっても問題は解決しない

 「自分たちは虐げられているのだから、戦わなくてはならない」

 こうした先鋭化は、過去にはいわゆる「カルト」として育っていったものだ。極右・極左的なテロリズムや、オウム真理教に代表される宗教テロも同じ流れで醸成されていた。だが、過去にはそこに「エコーチャンバー効果を多くの人にもたらすテクノロジー」は存在しなかった。2000年代までのBBSの時代には、参加する人が少なく、影響力は限定的だった。だが2010年代、SNSとスマートフォンの時代になり、先鋭化はわれわれのすぐ隣にあるものになった。

 テクノロジー的にいえば、マス向けのSNSからトランプ陣営を排除することは「彼らの活動を止める」ことではない。また別のテクノロジーで深く潜ることはできるからだ。これはまさに「カルト化」である。SNSを止めても、先鋭化と分断は終わらない。また、生活の中にSNSや動画共有サイトがない世界に戻ることはできないし、それらが抱える問題を解決する妙薬もない。われわれがちゃんと自覚的に動くしかないのだろう。

photo トランプ支持層が集い、連邦議会議事堂襲撃を煽ったとされるSNS「Parler」

 そこでは、メディアの役割はさらに大きくなる。「分かりやすくするために不適切な強調をする」「間違った情報を訂正しない」「正しさやより良い在り方より、手間やコストを優先する」ことにブレーキを踏まないといけない。そうした姿が結局、問題を大きくしてしまったのだから。いかに「伝わり方を変えるか」が、これから重要な要素になる。どう変えるべきかは分からないが、良いと思うことをするしかない。

 ただ、われわれの生活全般についてもいえることがある。

 脊髄反射的に拡散できて、目についたものをすぐに見られるというテクノロジーの特性が、エコーチャンバーをどんどん細くとがったものに変えていくことについて、われわれはもっと自省的であるべきだったのだろう。

 何の気なく「面白いから」「腹が立ったから」シェアしたものが積み重なって、われわれの分断は進んでしまった。それは、自分たちが毎日行っている「ちょっとしたこと」の積み重ねなのである。筆者も例外ではない。

 意見が変わることも、違うことも当たり前。それが現実なのに、なぜか「正しさ」がどこかにあると思ってしまう。多様性をもたらすはずのテクノロジーが、「楽に使える」ことを軸に進化した結果、多様性を減らすものへと進化してしまった可能性が高い。政治的な意見が違うこと、対策についての見方が違うことはあるが、その「違う人々」をわれわれは断罪しがちだ。そして、その結果として、本当なら信じないようなことを信じる人々が増えていく。テクノロジーが生み出した「楽になる」方法論をビジネス的に活用する人が増えることで、意見の誘導や分断がさらに大きくなってしまう。

 価値や正しさは複数ある。その多様性を認めるという当たり前のことを、われわれは忘れやすい状況にある。それは、経済的にも感染症対策的にも厳しい生活を強いられるようになってきたからかもしれない。

 すなわち本質的には、「もっと暮らしやすい社会にする」ことが解決策であり、テクノロジーはそのために活用すべきものなのだろう。SNSの「楽さ」が問題であったのならば、ひょっとすると「楽ではないが快適である」、ある種矛盾したユーザー体験が重要になるのでは……。

 なんとなく、そんな風に考えてしまう。

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