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「ワープロはいずれなくなるか?」への回答を今のわれわれは笑えるか あれから30年、コンピュータと文書の関係を考える(2/2 ページ)

» 2021年02月18日 07時00分 公開
[西田宗千佳ITmedia]
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 もう少しシンプルな話もある。特に企業においては、コンピュータのネットワーク化は個人よりも先に始まっていた。いろいろ課題はある(その辺は後述する)ものの、社内にLANを構築し、ファイルやプリンタなどの機器を共有する形が当たり前になっていく。その過程においては、ネットワーク利用を前提としていないワープロ専用機は組み込みづらい。この点は、1980年代末には明確になり始めていたので、その段階で「大量に売れる事務機器」としてのワープロ専用機は「詰み」の状況にあり、個人市場を残すだけになっていた。なので、問題の記事が出た1989年には、実際のところ、ワープロ専用機の将来は見えていた……と筆者は考えている。

われわれはペーパーパラダイムから抜けられずにいる

 一方で「効率的に文書を作成するもの」と考えた場合、コンピュータの歴史におけるワープロ専用機の位置付けには、別の見方が出てくる。

 現在、コンピュータを介してやりとりされる文書はどのようなものになっているだろうか?

 紙で渡されることは減っているが、「ページ形式」の文書は非常に多い。今やワープロで作られた文書だけでなく、PowerPointなどのプレゼンテーションソフトで作られた文書を扱うことも多い。

 前述のように、ワープロ専用機は「美しく印刷された紙の文書を量産する」ために作られたものだった。それが紙の形を経ないようになってはきたものの、結局「紙と同じようにページ構成された文書」であり続けるのであれば、そこからのジャンプはさほど大きなものとはいえない。

 過去には「パーソナルDTPソフト」のような、紙に印刷する文書を効率的に作るソフトもあった。それらはさすがにほぼ姿を消したが、代わりにPowerPointなどのプレゼンテーションソフトが使われるようになった印象がある。

 これらは、いわば「ペーパーパラダイム型」の文書作成だ。これまでの文化的・人間の生理的に、一定のページのまとまりで作られた文書に価値があり、見やすさもあることは否定できない。一方、作成する段階で「紙の上で表現した時にどう見えるか」を常に意識する必要はない。紙で見せるのが目的ならともかく、今はそうでない場合も多い。

 ワープロに「書式」という概念があるのは、中身である文字と体裁が分離可能であることを示している。文書に手作業で書式や位置を指定していくことと、文書の構造に合わせて自動的に体裁を当てはめていくことは、「紙に近い形での見栄え」という点では同じものだが、実際の作業時間や再利用性、そしてソフトウェアによる自動的な解釈・利用などを考えると、大きな違いがある。

 スペースで位置をそろえた文書や、セル結合などを多用した、いわゆる「神エクセル」が嫌われるのはそうした理由に基づく。本当は「紙に縛られた文書」からの脱却が必要であるのに、手慣れた文書作成がペーパーパラダイム型であるので、どうしても日常的な文書作成の形が大きく変わらない。

 そう考えると、30年が経過したにもかかわらず、現実問題として、われわれの「文書の作成と利用」は、そんなに進化できたわけではないのだ。

文書の構造化とデジタルトランスフォーメーションの関係

 こういう話になると、過去から「テキストエディタとワープロ、どちらが良いか」という議論になりがちだ。ワープロはペーパーパラダイムの上に存在しているソフトだが、テキストエディタで作られるのは純粋なテキストであり、再利用性などの点でワープロより良い……という話だ。

photo MS-DOS時代の主力テキストエディタを作っていた会社が今はiPhone向けに新しいエディタを販売する

 そこには一理あるが、現実問題として、人が読む文書には「読みやすい書式やレイアウト」があるのも事実。だからテキストで作成する場合でも、マークダウンやタグなどでレイアウトを決める場合が多い。プログラムの場合には、エディタ側が自動的に解釈し、表示を見やすく変更する場合も多い。

 一方、ワープロにも「構造によってレイアウトや書式を決定する」機能は昔からちゃんとある。それらを使えば、編集するとレイアウトが崩れるので調整に時間がかかる……といったことは少なくなる。校正支援や章立てによる長文作成支援などを考えると、ワープロで書くことにもメリットはある。ファイル形式にしても、昔のようにメーカーに閉じたプロプライエタリな形式、というわけではなくなってきている。

 重要なのは、その場で必要とされている文書制作にとって重要なことはなにか、という点だ。現状、過去のように完全に紙に寄せる必然性は薄れており、自分および文書を共有する人にとってメリットのある範囲での体裁が整っていればそれでいい。そのためには、「見出し」「本文」などの文書構造化や、シンプルな機能による、素早い作業が「誰の視点でも可能である」必要がある。

 だが、そこで重要になる「構造化した文書作り」を意識している人はまだまだ少ないのではないか。身についてしまえば大したことをしているわけでもないのだが、「見た目」の持つ直感性に比べると、必要とするリテラシーは一段階上だ。その観点で言うと、マークダウンでの文書作成は、シンプルな操作と構造化のバランスという面で良い落としどころだが、一般的なビジネス文書で浸透しているわけではない。

 さらには、文書の更新履歴管理や工程管理の問題もある。WordやGoogleドキュメントの「編集履歴」「コメント」などの機能を使っている例ですらそれなりにリテラシーがある人々であり、GitHubやクラウドストレージで履歴管理、とはなかなか進んでいかない。

 いわゆる「パワポ文書」をどう扱うか、という問題も残る。人に伝えるには良いものだが、再利用性や作成効率の面では問題が残る。本来PowerPointは、構造化された文書にレイアウトを与え、ページ単位で見せるという発想で作られたものだが、自由に絵や文字を配置する機能が重視された結果、構造化とは遠いところにやってきてしまった。こうした文書の形を今後どうしていくのか、というコンセンサスの部分にも意識変革が必要だろう。

 冒頭でも述べたが、「デジタルトランスフォーメーション」と呼ばれるものの一つの形は、文書作成の効率と再利用、マシンリーダブルな形にすることでのソフトウェアからの活用を進めることにある。その概念も手法も新しいものではなく、10年以上前から実践できたし、実践しているところもあったものではあるが、この変化の中で改めて意識され始めたところはあるだろう。

 ワープロ専用機はペーパーパラダイムの権化のような存在だった。だが、30年前の働き方は、まさに「ペーパーパラダイムの爛熟期」であったともいえる。それを今の目線で見て笑うことは簡単だが、われわれはまだペーパーパラダイムの中にある。そこからどこを残し、どこを脱皮させていくのか。30年後に笑われないようにするには、それを考える必要があるのだろう。

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