テクノロジーやビジネスの変化は、良くも悪くも、作品と人の関係を変える。それはテレビが生まれた時にも、ビデオが生まれた時にも同じように起きた。現象的に言えば、それがまたネットでも繰り返されているにすぎない。
“コンテンツが多すぎる”と嘆くのは分かるが、では、昔に戻って本当にいいのだろうか?
海外でレコードが人気、という話がニュースになることが多いが、あれも実情として、「レコードを日常的に聴いている人が増えた」わけではない。日常は圧倒的にストリーミングミュージックであり、ファンが「グッズとして」「アナログな音も聞きたくて」買っているのだ。昔に戻っているのではなく、併存しているのである。
アルバム単位で音楽を聴くことは減ったが、その代わりに「プレイリスト」という文化が生まれた。部屋の中で聞くものだった音楽が、ウォークマンの登場で「どこにでもある」ものになり、良くも悪くも音楽業界を変えた。それと同じことがこの15年、プレイリストを巡って起きている。
プレイリストベースのストリーミングミュージックが日本よりも先に普及した海外では、プレイリストを提示すること自体でファンとコミュニケーションするアーティストや、専門の「プレイリスター」も生まれている。先日Spotifyはユーザーインタフェースを変更したのだが、その狙いも、プレイリスターを「セカンドクリエイター」と位置付けて利用を促進するためだった。
作品自体に「何度も見ることで新しい発見がある」構造を取ることは、ビデオの普及以降、珍しいことではなくなった。映像の無料配信やサブスクリプションが増えたことで、映画などのプロモーションも変わった。続編が公開される前には、過去の作品が必ずサブスクリプションに並び、「復習してから新作を楽しめる」ようになっている。
大ヒット中の「シン・エヴァンゲリオン」だって、封切り前には過去作をサブスクリプションで見てから劇場へ行った人が多いだろう。そういう楽しみ方を「低コストに」「どこに住む誰でも」できるのは、今の環境の美点である。
過去とは違う作品との関わり方の中で、人々は「新しい距離感」を見つけていく。それを嘆いても始まらない。そこで支持されるには、時代にあった楽しみ方がされる作品と、時代が変わっても同じように愛される作品の両方があるはず。クリエイターはどちらを作ってもいいし、われわれもまた、どちらを愛してもいいはずだ。
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