Acrobatのファーストリリースは1993年。日本ではリリース当時、新しいテクノロジーとして注目されはしたものの、実際に市場で普及するまでにはかなりの歳月を要した。それというのも1999年までは日本語フォントをドキュメントに埋め込むことができず、せっかくのPDFも日本語で組まれたフォントをアウトライン化しなければデザインや組版を再現することができなかったのである。筆者は1999年に日経デザイン別冊のアートディレクションを担当したとき、ゲシキ氏とワーノック氏が記事中に日本語対応についてインタビューに答えていたことを記憶している。
2000年になると日本語フォントのPDFへの埋め込みが可能になり、この段階でPDFは日本でも一気に普及が加速した。後年、ゲシキ氏とワーノック氏は「AcrobatとPDFがこれほどまで普及に時間がかかるとは思っていなかった」と、その苦労を語られていたことが印象に強く残っている。
PostScriptはプリンタやイメージセッターといった出力デバイスへのライセンスビジネスであったが、PDFはデバイスインディペンデントにPCからプリンタやディスプレイでの表示を自由に行うための技術として、現在では欠かすことはできないものとなった。この功績は両氏の粘り強さがなければ成し得なかったことだ。
21世紀に入るとAdobeの戦略は、PostScriptを軸としたグラフィックパブリッシングのビジネスから、デジタルでのクリエイティブ分野全般へと展開する。これ以降はAdobeの成長を創業者として見守り、経営陣やスタッフの誇りと愛すべき父のような存在としてあり続けている。
スティーブ・ジョブズ氏がAppleを去って、1986年にNeXTを創業したとき、最初のハードウェア製品である「NeXT Cube」に採用したのが「Display PostScript」と呼ばれるイメージングモデルだ。もともと印刷用のページ記述言語(PDL)であったAdobeのPostScriptを画面表示用に改変して組み込まれたものだ。
ご存じのようにUNIXワークステーションとしてのNeXTシリーズは商業的には成功をおさめることができなかったが、後にNeXTがジョブズごとAppleに買収されたことで、その技術資産はAppleに移った。その結果、AppleはAdobeの技術的な協力を得たことになり、Mac OS X(現在のmacOS)で実装されたQuartz以降の描画システムが確立された面があるのではなかろうか。現在のMacであらゆるドキュメントがPDFに書き出し可能なのは、この流れがあるからに違いない。
AppleとAdobeのつながりはさらにそれ以前にスタートしていた。ジョブズはMacが誕生する前、1982年に創業したばかりのAdobeを買収しようと試み、結局出資することとPostScriptを5年間ライセンスする契約を結んだという。
その成果として生まれたのが、AppleがAdobeからPostScriptのライセンスを受けて1985年に発売された「LaserWriter」 だ。
スタンドアロンの接続が一般的だったページプリンタに、300dpiという当時としては高解像度印刷の品質に加えて、AppleTalkというネットワークシステムで1台のプリンタを複数台のMacで共有できるという画期的なものだった。この出発点があったからこそ、PCでプリンタを共有してデザインワークやパブリッシングが可能になったのだ。これもゲシキ氏とワーノック氏の功績である。
私が最初のカラーMacである「Macintosh II」と日本語PostScriptを搭載した初めてのプリンタ「LaserWiter NTX-J」をデスクに置いてDTPの黎明期に格闘していたころ、「Lasertalk」というソフトウェアを使うことがあった。PostScriptエラーでどうしても出力ができないファイルのコードを修正し、プレビューできる。そう。PostScriptは「コンピュータ言語」なので、こうしてコードを修正することで「デバッグ」できるのだ。
現在ではほとんど使われるケースを見かけないが、1988年に発売されたこの製品はのちにWindows版もリリースされて、印刷会社やプリプレスの現場ではそれなりに利用されていた。プログラミング経験のなかった私にとっても、ユーザーサポートとコミュニティーの協力で出力エラーを幾度となく回避できたことは幸運だった。
Adobe製品のユーザーとして30数年関わっていて感じることは、気になる点や不具合には解決の努力と情報提供をしてくれること、時間がかかっても粘り強く対応してくれることだ。そのマインドはゲシキ氏とワーノック氏の開発と経営の姿勢が残したものだと筆者は信じている。
※参考文献:Inside the Publishing Revolution: The Adobe Story
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