このコーナーでは、2014年から先端テクノロジーの研究を論文単位で記事にしているWebメディア「Seamless」(シームレス)を主宰する山下裕毅氏が執筆。新規性の高い科学論文を山下氏がピックアップし、解説する。
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ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンやフランスのパリ・サクレー大学などに所属する研究者らが発表した論文「Did Michelangelo paint a young adult woman with breast cancer in “The Flood” (Sistine Chapel, Rome)?」は、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画「大洪水」に、乳がんの症状を示す女性が描かれている可能性があることを指摘した研究報告である。
研究対象となった壁画は、1508年にユリウス2世の命により制作が開始されたもので、旧約聖書の創世記を主題としている。問題の女性像は壁画の端に描かれており、既婚であることを示す青いスカーフと外套のみを身につけた若い女性として描かれている。
詳しい観察によると、左乳房は年齢相応あるいは授乳による垂れと目立つ乳頭を持つ正常な形態を示している。一方、右乳房には、明らかな病的特徴が見られる。乳頭は陥没して変形し、乳輪とその周辺の皮膚にはくぼみが見られる。乳頭より上の皮膚には傷跡のような深いへこみがあり、乳房上内側には腫瘤を思わせる膨らみがある。また、左腋窩方向にも、リンパ節腫大を示唆する膨らみを確認できる。
(1A)システィーナ礼拝堂の天井画の一部で、ミケランジェロが描いた「大洪水」 (1B,1D)今回乳がんを指摘された女性 (1C)右胸部の拡大図 (1E)最後の審判に描かれた若い女性の健康な胸部 (1F)最後の審判に描かれた高齢女性の健康な胸部現代であれば、乳がん患者の85%は50歳以上だが、ルネサンス期の平均寿命は35歳程度だったため、単純な比較はできない。研究チームは、トスカーナ地方で1800年前から存在が確認されている「BRCA1遺伝子」の変異との関連性も指摘している。この遺伝子変異は、若年での乳がん発症と関連があることが知られている。
芸術的な観点からは、ミケランジェロが解剖学的な知識を持っており、健康な乳房の形態を正確に描写できていたことが、礼拝堂の「最後の審判」や メディチ家礼拝堂の彫刻作品との比較から確認できている。神学的な解釈としては、この乳がんの描写は生命の無常さや罪への罰という意味を持つとされる。
研究チームは、この描写が意図的なものであり、病気の表現を通じて神学的なメッセージを伝えようとしたものと結論付けている。ネオプラトニズムの影響を受けていたミケランジェロにとって、身体の変形や病は精神的な深淵の表現であり、美と調和の追求による不死との対比として描かれたと考えられる。
Source and Image Credits: Andreas G. Nerlich, Johann C. Dewaal, Antonio Perciaccante, Laura Cortesi, Serena Di Cosimo, Judith Wimmer, Simon T. Donell, Raffaella Bianucci, Did Michelangelo paint a young adult woman with breast cancer in “The Flood”(Sistine Chapel, Rome)?, The Breast, Volume 78, 2024, 103823, ISSN 0960-9776, https://doi.org/10.1016/j.breast.2024.103823.
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