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第2回「何を」から「どのように」へ〜生活者視点によるコンテンツ消費の検討〜(2)誰がキラーコンテンツを“殺して”いるのか?

» 2004年08月12日 00時00分 公開
[比留間雅人,電通総研]

コンテンツは「選択することへの安心感」を与える

 「消費」という言葉の使われ方は曖昧で、「購入」を意味することがあれば、具体的な「利活用」だったり、情緒的な価値も含めた「享受」の意味合いでつかわれる場合もある。そこでまず、コンテンツの消費を「購入」時点で見てみよう。

 「セカチュー」との愛称(?)まで生まれた『世界の中心で愛を叫ぶ』は、出版不況と言われる中で空前のヒット作品だったが、従来とは違う売れ方をしているようだ。

 関係者へのインタビューをもとに『セカチュー』現象を詳しく分析している『創』2004年8月号によれば、『セカチュー』は、「書評」ではまったく評価されなかったという。フリーライターの永江朗氏は、片山恭一氏の他の作品はそれほど売れていない点に注目している(読売新聞2004年6月28日朝刊11面)。

 これまでの本の読みかたであれば、書評なども参照して本を選び、気に入るとその作家を中心として関係する他の作家や他のジャンルを深堀りしていったはずだ。どうやら、「書評」や「作家名」といった、従来の品質保証システムとはあまり関係ないところで『セカチュー』ブームは発生したようだ。

 では新しい品質保証システムとは何かといえば、ニュースワイドショーでネタとして取り上げられたり、本の帯に推薦コメントを寄せた若手女優が売れ始めたり、映画化が決定したりといった、いわばメディア上のイベントなのである。事実、売れ行きが大きく動いたのはメディアが取り上げてからだという。かくして、例の「みんなが読むからみんなが読む」という構図が成立する。

 永江氏は、『セカチュー』ブームを「『話題を集めている』という評判を安全牌」とした消極的な選択の結果と考えている。確かに「みんなが〜」の構図の中での選択は、「選択することの安心感を得ること」といえるだろう(この種の選択行動に着目して消費行動を捉える“視点”について、筆者は以前別の場所で検討した)。

コンテンツは「モノを所有・整理することの喜び」や「いつでも見られる可能性」を与える

 「教育テレビの語学講座を余さず録画したが、一度も観ていない回が殆どだ」とか、「古本や中古CDでとりあえず気になったものをまとめて買っているが、まだ聴いていない」といったことはよくある。

 今年2月に電通総研が実施した調査によれば、テレビ番組録画の目的について、「コンテンツの視聴」(【コンテンツ志向】)を挙げる人は3割強でしかない。4割は、録画テープにラベルを貼ったり並べたり、あるいはそれを所有する喜びといった「モノとしてのコンテンツを所有・整理する楽しさを得ること」(【モノ志向】)、残り3割弱が「いつでも見ることができるという可能性(のもたらす安心感)を得ること」(【可能性志向】)であった(図1参照。なお本調査では実態を聞いた上で意識を解釈した)。

図1 図1「2004年 DCI情報行動と意思決定に関する調査」より作成

 数字の解釈はともあれ、少なくとも、録画という形のコンテンツ消費の中で、「録画したものの視聴」は一部分に過ぎないとはいえるだろう。ラベルを貼ってきれいに並べられたビデオテープに喜びを感じるとき、テープの中身がどうかはそれほど関係ないだろう。いつでも見られるという可能性や安心感は、録画機器の再現性や、ビデオテープ・DVD・ハードディスクなど記録媒体の安定度そのものだ。こうした欲望を刺激するために、コンテンツの「質がもたらす価値や意義」にいくらこだわってもあまり意味はない。

「何を」から「どのように」へ

 とはいえ、コンテンツが不要だというわけではない。たとえばコンテンツを選ばずに録画だけを楽しむということ(極論すれば「録画できれば“砂嵐”でもいい」と考えること)はまず考えられない。たしかに「モノを所有・整理する楽しさ」や「可能性」は、「コンテンツの質(のもたらす価値や意義)」ではないが、コンテンツの存在抜きには発生し得ないのではないか。

 図表2、3をごらんいただきたい。【モノ志向】や【可能性志向】を選択している人の大半は、その志向にもかかわらず、「自分の興味・関心にこたえてくれるテレビ番組を選んで見るようにしている」とか、「見たいと思える番組ジャンルは、年間を通してだいたい決まっている」、「こだわって作られた番組を見るのが好きだ」などと、それこそ「コンテンツドリブン」な視聴をしていると自覚している。

図2 図2「2004年 DCI情報行動と意思決定に関する調査」より作成
図3 図3「2004年 DCI情報行動と意思決定に関する調査」より作成

 ユーザーが、どこかで、【モノ】や【可能性】といった「コンテンツの質以外のもの」を「コンテンツの質」と取り違え、「そのコンテンツでなければならなかったのだ」と思ったとき、はじめてそのコンテンツは【モノ】や【可能性】という欲望の対象を身に纏うことができるのだ。

 しかし往々にして、提供者自身が「コンテンツの質」と「コンテンツの質以外のもの」とを取り違えがちだ。「どんなコンテンツがウケルのか」と考えこんだり「いや、『質』の高いコンテンツなら自ずと支持されるはずだ」と開き直ったりと、「何を提供するか」(「何を」の問題系)に囚われてしまう。「質」とは無縁なものを「質」で実現しようとするのだ。無論、「質」にこだわるのは、作り手の大事な倫理ではあるが、それだけではコンテンツ消費の多様な欲望を刺激することなどできない。

 提供者にとって重要なことは、(1)「コンテンツの質」と「コンテンツの質以外のもの」とを切り離して現状を捉えつつ、(2)ユーザーに「コンテンツの質以外のもの」を「コンテンツの質」に取り違えてもらうこと、である。

 端的に言えば、「どのようにコンテンツを提供/受容するか」(「どのように」の問題系)に繊細になることである。

 次回は、これまでの2回の話を踏まえて、もう少し具体的に、新しいメディアの活用のヒントを考えてみたい。もちろん、「どんなコンテンツが効くか」というような話はせずに。

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