さて、それでは今度は下記のテキストをご覧いただきましょう。昨年末から何かと話題の「派遣」に関する法律についての簡単な説明です。社会保険労務士などの資格試験の勉強のために専門学校の講座を受講したら、講師の労務問題コンサルタントがこんな話をしていた、という想定で読んでください(ちなみに実際はこの文面は当記事のために私が書いたものです)。
労働者派遣業務に関しては、1999年に法律の大きな改正がありました。改正以前には派遣の可能な業種を指定する方式だったのに対して、改正後は原則としてすべての業種において派遣が自由化され、派遣に適さない業務だけを指定するネガティブリスト方式へと変更されたのです。
事実関係はこの通りで合ってますし、難しい説明をしているわけでもないので、こんなトークで別に問題ないんじゃない? と思いたいところです。しかし、私のような“概念分析屋”からすると「ちょっと待った」と言わざるを得ません。このままでは、
ので、ぼんやり聞いている人の記憶には残らない可能性が高いのです。実際のところ何が問題かを知るために、以下の2点の質問を考えてみましょう。
まず質問1から行きますと、「派遣自由化」の原文では「ネガティブリスト方式」の反対概念に当たる言葉は出ていません。ためしに、原文に明記されている情報だけを使って改正前後の変化を整理すると図2のようになります。
受講生の「概念分析」力がある程度高い場合は、口頭で説明された「派遣自由化」の原文を聞いて図2のような構造を頭の中に描くことができます。もちろんノートにも書けるでしょう。しかし、説明されていない空白の欄があるため、「ここはいったい何が入るんだろう?」と受講生に不安を与えてしまいます。
もちろん、「ネガティブ」の反対と言えば普通は「ポジティブ」ですから、おそらく1999年の改正前の方式名称は「ポジティブリスト方式」、それから原則欄は「禁止」であろうと推測することはできるでしょう。しかし、勉強中の「受講生」である以上、その推測は確信にはなりません。本当にそれでいいのかな? という不安をともなう推測になってしまいます。実はこの「不安」という状態は学習をする上で大敵でして、不安が残っていると学習効率が大きく損なわれてしまいます(図3)。
これは例えばA、B、Cが相互に関係のないセクションだったとしても同じです。「不安という心理自体があとを引きずる」ため、1テーマの学習はそのセクションで完結させなければなりません。
という心理状態でテーマB以後に移れるのがベストです。そのためにはAの説明の中で「対称構造の片方の情報がない」といった事態は避けなければなりません。
もちろん、どうしても個人差はありますから、講師の説明がいくら完璧でもちょっとした勘違いで「あれ? 分かんない!」という不安が発生してしまうことはあります。そのため、「不安を後にひきずらせない切替トーク」というテクニックも存在するのですが、その話は対称構造とは別な話題になるので次回にまわしましょう。ここでは対称構造に関する考察を続けます。
さて、「ネガティブリスト」の反対概念の名前が出ていないのは少々問題である、ということが分かりました。しかし、もしそれを講師の先生に質問としてぶつけてみると、もしかしたらこんな答えが返ってくるかもしれません。
受講生 改正後はネガティブリスト方式だそうですが、改正前は何だったんですか?
講師 え、改正前? ……ああ、いやあのね、別に気にしなくていいけど。「ネガティブリスト方式」ってこれ正式名称でも通称でもなくて、理解の助けになるようにちょっとした補足説明として言っただけだから、覚える必要もないし。まあ、ネガティブの反対だから、改正前はポジティブリスト方式という理解でいいんですけど、ははは。
さて、ここでもう一度最初に講師が語った「派遣自由化」の説明原文を読み返してください。「正式名称でも通称でもなくて、ちょっとした補足説明として言っただけ」だから「覚える必要もない」というニュアンスを感じ取れる説明になっていますか? なってないんですね。
上記の回答からうかがえるのは、講師の頭の中ではこんなモデルで情報が整理されていたらしいということです(図4)。
図2と比べてみると空白の欄が1個減ってますね? つまり講師のほうは「ネガティブリスト方式」という名前を「対称構造の一部」として意識せずに使っていたわけです。そのため反対概念の名前を出していませんでした。しかし、受講生のほうは図2のように「対称構造」的なメンタルモデルでとらえたため、空欄を意識してしまい、不安を感じるわけです。
こういうギャップは、口頭で説明しているときによく起こります。口頭の説明では、「講師が対称構造として意識している範囲」が伝わりにくいため、受講生との間で意識ギャップが発生しやすいのです。
それを解消するための1つの手段は図4のような図表で構造を明示してしまうことですが、口頭のままでも話し方を工夫すれば回避できます。例えば、
労働者派遣業務に関しては、1999年に法律の大きな改正がありました。改正以前には派遣の可能な業種を指定する方式だったのに対して、改正後は原則としてすべての業種において派遣が自由化され、派遣に適さない業務だけを指定するようになりました。まあ要するにこれ、だめなものをリストにするので、ネガティブリストなんて呼んだりしますね。別にこの名前は覚えなくて大丈夫ですけど。
「まあ要するにこれ」「……なんて呼んだり」とざっくばらんな口調を使っていること、「覚えなくて大丈夫」と位置づけを軽くしていることなど、いずれも「ちょっとした注釈であることを口頭で表現するための工夫」です。こういった工夫をしておくと、対称構造の欠落があっても受講生はそれを感じなかったり、感じてもあまり気にせずに済むので不安の発生を抑えることができます。
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