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余命1年を宣告され単身渡米 がんを乗り越え「2度の世界女王」に輝いたバックギャモン選手「泣いてる時間を努力に変えよう」(3/5 ページ)

» 2019年01月28日 07時30分 公開
[今野大一ITmedia]

原因不明の体調不良 「子宮体がん判明」まで3年余り

 09年に結婚した。だが08年ころから痛み止めを飲まないと歩けないほど、体調不良が続いていた。「良くなるまで休もう」と仕事もバックギャモンも止めた。今思えばこのころから子宮体がんだったのだが、何度診察をしても見つからず、一向に回復しない。

 そんな中、研究会仲間で医師の鈴木琢光さんが11年に世界チャンピオンになった。医師の激務と両立させつつ、達成した仲間の偉業。この時、「体調不良を理由に何もしないわけにはいかない。待っていたら何もできなくなる」と思い、競技に戻る決心をした。

 その矢先の12年、余命1年の子宮体がんであることが発覚。医師からは「手術しなければ1年もたない」と言われた。「家族に何て伝えよう」。それまで続いていた体調不良から、どんな診断が出るかは何となく想像はしていた。自分で調べたがんの症状と、自分の症状が似ていたからだ。母親には言いにくいし、夫には「本当に申し訳ない」。女性として描いていた将来の夢はついえることになった。

 しかし、一度自分で決めたバックギャモンだけはやり遂げたい。悩んだ末に子宮、卵巣、卵管、リンパ節を切除した。その後も体調は最悪だったが、闘病を続けながら大会にも出続けるという生活を始めた。治療のせいでホルモンバランスが崩れ、抗がん剤の副作用もあり、まともな思考が出来ない。髪の毛も抜け、吐き気や痛みもひどい。それでも結果を出し続け、抗がん剤治療を13年の9月に終えた。

 「治療に失敗して、死ぬことも覚悟しました。医師には反対されましたが、米国で武者修行にも挑みました。『命の期限』を自分の中で意識したときに、バックギャモンで世界チャンピオンになって『生きた証を残したい』と思ったのです」

 ニューヨークのタイムズスクエア近くの公園で対戦をしたり、ロサンゼルスやサンフランシスコのバックギャモンクラブの道場破りをしたりして、経験を積んだ。そしてついに14年のモンテカルロの世界選手権でアジア人女性として初めて優勝し、賞金650万円を獲得した。決勝戦は1試合8時間近くかかる過酷な状況だった。副作用で髪が抜け、ウィッグを着けながら「世界」を獲ったのだ。

phot 2014年ウィッグを着けて臨んだ世界選手権
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phot タイムズスクエア近くのブライアントパークでは、バックギャモンに興じる人々の姿が(2013年10月、矢澤さん撮影)

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