NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で注目! 「実質的な天下人」という道を歩んだ三好長慶征夷大将軍になり損ねた男たち(2/2 ページ)

» 2020年03月07日 04時10分 公開
[二木謙一ITmedia]
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畿内を制し実質的な天下人となった長慶

 京に将軍も管領もいなくなったことで、長慶は京での最高実力者となった。前将軍足利義晴は天文19年に死去。子の義輝と細川晴元は長慶からの和議を拒否。天文20年7月には将軍義輝と晴元が京に迫ったが、これを長慶の家宰・松永久秀が撃退した。

 天文21年1月に、晴元は出家して氏綱に家督を譲り、長慶が晴元の子昭元を取り立て、将軍義輝が上洛する条件で長慶と和解。氏綱は13代将軍義輝の許に出仕し、長慶は義輝の供衆に列したが、幕府の権力を握るのは義輝でも氏綱でもなく長慶であった。

 長慶は、山城、大和、摂津など畿内と淡路、讃岐、阿波を制し、周辺国に影響力をおよぼしていて、「天下人」と言ってもおかしくはなかった。だが、この時代に天下人を目指したのは織田信長だけだった。武田信玄や上杉謙信、三好長慶も将軍を補佐する地位までは考えても、それに取って代わる発想はなかったようだ。

 長慶に織田信長のような非情さはなく、同じ相手と何度も戦いと和睦を繰り返すも、決定的に滅ぼすこともなかった。将軍義輝ともそうで、長慶は義輝と敵対と和解を繰り返していた。永禄元年(1558)に、義輝は細川晴元や奉公衆を率いて上洛を目指したが、松永久秀や三好三人衆(三好氏の一族・重臣)が軍勢を繰り出すと、和議を申し入れて、影の薄い将軍権威で幕府政治を再開している。

 長慶は、三好之康(ゆきやす)、十河一存(そごうかずまさ)、安宅冬康(あたぎふゆやす)の弟たちに支えられていたが、永禄4年に十河一存が、永禄6年に嫡子の義興が22歳で死亡すると政務に身が入らなくなったようだ。永禄7年に安宅冬康を謀反の疑いで誅殺すると、その2カ月後の7月に河内飯盛城で42年の生涯を閉じた。

著者プロフィール

二木謙一(ふたき・けんいち)

1940年東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専門は有職故実・日本中世史。國學院大學教授・文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長・理事長を歴任。1985年『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。NHK大河ドラマの風俗・時代考証は「花の乱」から「軍師 官兵衛」まで14作品を担当。主な著書に『関ヶ原合戦』(中公新書)、『徳川家康』(ちくま新書)など多数


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