禅寺に育った私は、3歳で経本を持たされ、5歳になると、お檀家さんの法事に同行させられていました。幼少期はまだよかったのですが、思春期に差しかかると、そんな環境に反発を覚えます。厳しい師匠、堅苦しいしきたり、何かにつけて「お寺の子」と呼ばれる重圧が嫌で、将来の進路を考えるたびに「坊さんにだけはなるものか」と心に誓ったものでした。
とはいえ、他に何かやりたいことがあったわけでもなく、「それならばとりあえず」と、周囲の勧めに従い宗門の大学を出て、本山で行を修めます。しかしやはり、寺に戻る気持ちになれなかった私は、生きていくために起業し、まさに「お金を稼ぐために健康を犠牲にする」を目の当たりにします。
現在は興した全ての会社から完全に退き、寺の住職となりましたが、最初の事業を起こしてから、全ての事業を継承するまでの間に、3回救急車で運ばれたのです。
売り上げが立たなければ、立たないときの苦しみがあり、売り上げが立てば、立ったときの苦しみがある。借金、税金、従業員……お金と人の悩みが尽きないのは、経営者の宿命なのでしょう。もちろん、悩み苦しみ以上に、楽しいこと、かけがえのない経験がたくさんあります。それが会社経営の醍醐味であり、だから私も複数の事業にチャレンジしたわけですが――。
1945年以降は、労働基準法によって、ある程度労働者の働き方にも配慮がなされるようになりました。しかし、「社長」や「個人事業主」といった経営者の立場になると、労働基準法で定める「労働者」には当てはまりません。
自分で自分の働き方を管理し、健康管理をしていかなければ、誰も守ってくれないのです。若いときのように、いつまでも働き続けられるわけではない。気合や根性だけで、何もかもが乗り切れるわけではない。そもそもお金を稼ぐことに夢中になって、健康を失ったら、全てを失ってしまう。
そんな当たり前のことを病に倒れて初めて実感し、出会った言葉が、先のダライラマの教えでした。
考えてみれば、人間の体は機械のようなものです。使わなくても調子が悪くなる。使いすぎても調子が悪くなる。無理をすれば無理をしただけ、早く傷みますし、適切に使えば、耐用年数は80年以上にもなります。けれども、機械とは決定的に違うことがあります。
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