インタビュー部屋のテーブルに並べられた最新シューズを手に取った瞬間、あまりの軽さに目を見張った。片足わずか129グラム(27.0センチ)。指先に載せるとまるで一枚の紙のように軽い。だが力一杯曲げようとしても、びくともしない。靴底に仕込まれたカーボンプレートが、走行時の安定性と効率的な推進をサポートしているという。
ひと昔前までアシックスは「品質はいいが海外勢に押され気味」だと目されていた。それが、いまや世界中のトップランナーと若者に支持されている。
8月14日に発表した2026年12月期連結決算の業績予想では、売上高1兆500億円、営業利益1950億円と過去最高を更新する上方修正をした。「売上高1兆円」を超えて、新たなステージへと躍進を果たしたといえる。
だが、その道のりは決して平坦ではなかった。一時は過去の成功体験に溺れ、ライバルのイノベーションを「一過性のブーム」と見た。その結果、2021年の箱根駅伝では自社シューズの着用率が「まさかの0%」という状況にも直面した。このどん底から、同社はいかにして巻き返したのか。
その背景には、野球道具や学校ウェアビジネスから撤退し、強みを生かせるカテゴリーにフォーカスする「集中と選択」や、開発・研究・マーケティングなど各部門の精鋭を結集し、最速シューズの開発に挑んだ会長直轄の「C-PROJECT」があった──。代表取締役会長の廣田康人氏への単独インタビューから、日本発のグローバルブランドとして世界市場での勝ち筋に迫る。
廣田康人 (ひろた・やすひと)1980年に三菱商事に入社、広報部長を経て、2010年に執行役員総務部長、常務執行役員、関西支社長。2018年にアシックスに顧問として入社、22年に代表取締役CEO兼COO、24年1月から代表取締役会長CEO。69歳。愛知県出身(アイティメディア撮影)「踏み込んで、飛ぶんです。反発性がものすごい。トップ選手は着地するときに、かかとをつけません。つま先側のここだけで走る。だから、私たち一般ランナーには簡単に履きこなせるシューズではありません」
目の前に置かれたMETASPEED(メタスピード)シリーズの最新モデルを指さしながら、廣田氏は笑顔でそう語る。これこそが、過酷な長距離レースの世界で、アシックスを再び頂点へと押し上げた最新鋭のシューズだ。
同社は歩幅を広げて伸びやかに走るストライド型向けの「SKY」(スカイ)、回転数を上げてピッチで刻む走者向けの「EDGE」(エッジ)、そして2025年に発売した軽量性を追求した「RAY」(レイ)という、走者の個性に合わせたトップモデルを展開している。エリートランナー向けのシューズで、弾むように軽やかに走れるのが特徴だという。価格はどれも約3万円前後で安くはない。
かつてアシックスといえば「技術や品質は高いが、米NIKE(ナイキ)や独adidas(アディダス)に比べるとデザインがどこか泥臭い」「学校の体育着や部活動のイメージが強い」と評されることも少なくなった。しかし、現在の姿は全く異なる。ランニングシーンのみならず、若者やファッション感度の高い層が、アシックスのシューズを履いて街を闊歩(かっぽ)しているという。
2026年12月期連結決算(通期予想)において、アシックスは売上高1兆500億円(前期比29.5%増)、営業利益1950億円(同36.8%増)、当期純利益1200億円という好業績を見込んでいる。中間決算の段階で売上高は5344億円に達し、創業以来初となる「年商1兆円」を突破する勢いだ。税引き後の利益でも1000億円の大台を超え、名実ともに世界のスポーツ用品業界をけん引するメガブランドへと進化を遂げる。
だが、今でこそ絶頂期を迎えているアシックスだが、ほんの数年前までは大きな壁にぶち当たっていた。
2017年、陸上長距離界の王者だったアシックスの足元を、大きく揺るがす事態が起きた。ナイキが投入した厚底シューズ「ヴェイパーフライ」である。
それまでの長距離ランニングシューズの常識は「軽さを追求するためにソール(靴底)を薄くする」という薄底至上主義だった。何十年間もその「薄底の成功体験」で世界をリードしてきたアシックスの社内には、ナイキの厚底に対する甘い見立てが存在していたという。
「厚底なんて、一過性のブームに過ぎない」 「あんなに分厚いソールではけがのリスクが高く、履きこなせるランナーなど限定的だ」 「アシックスイズムを貫いていれば、いずれランナーは薄底に戻ってくる」
廣田氏は「この当時、駅伝などで30%くらいのシェアを持っている成功体験があったので、ナイキの厚底は受け入れられなかった。特に中間管理職はそうでした」と打ち明ける。
過去の成功体験から、新勢力のイノベーションを「一過性」と見る空気が支配的だったのだ。しかし、現場のランナーたちの判断は冷静だった。分厚いフォーム材とカーボンプレートがもたらすタイム向上に魅せられた選手たちは、続々とナイキの厚底へと乗り換えていった。
その代償は、2021年1月2〜3日の「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)で表れた。全10区間、210人のエリートランナーが駆け抜ける舞台において、かつて過半数以上のシェアを誇っていたアシックスのシューズを履いたランナーは「0人」だったのだ。
「着用率ゼロ」──。日本の陸上界を支えてきた老舗メーカーにとって、それは歴史的敗北だった。廣田氏が社長に就任した2018年には、北米事業の不振も重なって約200億円の最終赤字を計上。2020年にはコロナ禍が追い打ちをかけ、営業赤字に転落していた。
「このままでは、アシックスという会社そのものが立ち行かなくなる」──廣田氏は当時の危機感をこう振り返る。
箱根駅伝「着用率ゼロ」に先立つ2019年冬、すでに情勢を察知していた廣田氏は、起死回生の一手を打っていた。それが「C-PROJECT」の発足だ。「C」とは、創業者の鬼塚喜八郎氏がかつて唱えた「頂上(Chojo)作戦」の頭文字から取った。文字通り、業界の頂点を奪還するための電撃プロジェクトである。
従来のシューズ開発のプロセスは、デザインを起こし、開発部門が設計し、試作品を作り、選手に履いてもらってフィードバックを得るという整然としたバトンリレー方式だった。しかし、廣田氏はそのルールを変えた。
「そんな悠長なバトンリレーをやっている時間はない。デザインも、開発も、マーケティングも、知財(IP)の担当者も、全員この部屋に集まってほしい」
廣田氏は本社内にある一部屋に、各部門から集めた気鋭の若手エースたちを集めた。部門の壁を取り払い、全員が膝を突き合わせて即断即決で仕様を決め、その場でプロトタイプを試作する高速な開発体制を構築。「世界で一番速く走れるシューズを、どこよりも早く作ってくれ」という厳命を下した。
このC-PROJECTから生み出されたメタスピードシリーズは、奇しくもコロナ禍で1年延期となった2021年の東京オリンピックにギリギリで滑り込んだ。男子・女子のトライアスロン競技において、メタスピードシリーズを履いた選手が男女ともに金メダルを獲得。「アシックスの靴を履けば勝てる」という評判は、世界のアスリートたちの間を駆け巡った。
「いったんプラスの方向に進みだすと、箱根駅伝での装着率も上向き、社員の自信にもつながりました」。箱根駅伝での着用率は翌年から急回復し、2026年大会では 28.6%(全メーカー中2位)まで伸長。60人のランナーが履いたという。首位アディダス(35.7%)、2位アシックス(28.6%)、3位ナイキ(16.2%)という「三つ巴」の激戦構造を形成し、廣田氏は「世界市場では、この三つ巴争いはしばらく続きます」と読んでいる。
「頂上を取れば、その下にも好影響を及ぼします。トップランナーが履いて勝つ姿を見せれば、一般のランナーも『やっぱりアシックスがいい』と選んでくれるようになるんです」
事実、2025年の神戸マラソンでは全ランナーの42%がアシックスを着用。東京マラソンでも34%のランナーが、アシックスのシューズを履いた。トップアスリートでの勝利が、一般市場での購買を生む好循環が復活した瞬間だった。
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