次に「題材」。「全裸監督」は、アダルトビデオ業界という、表に出しづらいテーマを題材としている。このことが「Netflixだから」「外資だから」と言われる。これも、ちょっと認識が正確ではない。
実のところ、海外におけるコンプライアンスは、日本におけるそれと同等以上に厳しい。AppleやGoogleなどのアプリストア、Kindleなどの電子書籍ストアでの規制は、エロなどの領域で、日本より厳しい部分も多い。一般店頭でも、彼らが一般的に持つ宗教的・倫理的価値観に合わないものは、そのまま販売するのが難しい。「厳しくなった」と言われるが、それでも日本は「なあなあ」な部分がある。
一方、特にアメリカでは、「ちゃんとゾーニングし、意思確認を伴うならば、その先は個人の判断に任せる」という考え方がある。この考え方を、ケーブルTV局は活用した。誰もが流れてくるものを見るテレビではなく、自分から加入したケーブルTVであるなら、過激な表現も許されるのでは……と判断したわけだ。前出の「ゲーム・オブ・スローンズ」などもかなり過激な表現が多いが、それはプレミアムケーブルTV局で、「意思確認の上ゾーニングして見せている」という建前があるから流しているのだ。一時このロジックで、ケーブルTV局はどんどん過激化していた。
Netflixは、この発想をさらに推し進めた。
契約したということは意思があったということだし、視聴するには「タップ」「クリック」が必要。自分から見る意思があったわけだから、その上での表現は一定の自由度がある、と判断したのだ。
だからといって、なんでもできるわけではない。同社が「コンセンサスを得られない表現」を相当慎重に選んでいるのも事実だ。
「全裸監督」でいえば、女性の意思と搾取の問題がそれにあたる。アダルトビデオ業界を性差別や搾取と切り離すのは難しい。「全裸監督」では、主人公である村西とおる監督の周囲での描き方を慎重に選ぶことで、その種の問題から生まれる嫌悪感や不快感をうまく取り除いている。
単純に漂白し、「なかったこと」にしているのではない。別の形にし、主人公をより主人公らしく描き、ストーリーとして気持ちよく見れるよう、はっきりと脚色しているのである。ドキュメンタリーでなくエンターテインメントである以上、よくあるやり方だ。
ちょっとした言葉のあるなしや、乳首が出た・出ないレベルで判断するのでなく、「エンタメとしてこの題材をヒットさせるにはどうすべきか」をちゃんと検討していることこそが、他のドラマと「全裸監督」の大きな違いであり、それを許容する態勢こそ、Netflixのような事業の特徴である。
それも結局は「ケーブルTVで起こっていたことを分析し、自分達のビジネスを拡大するために生かすにはどうすべきか」というロジックの賜物である。
「外資だから」で思考停止してはいけない、と筆者が言う理由は、まさにそこにある。
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