――最も思い入れのある作品や、すべての作品に込めたメッセージがあれば教えてください。
宮崎 うーん、一番自分の中にトゲのように残っているのは「ハウルの動く城」です。ゲームの世界なんです。でもそれをゲームではなくてドラマにしようとした結果、本当に格闘しましたが、スタートが間違っていたんだと思うんですけど(笑)、自分が立てた企画だから仕方がありません。
僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入った人間ですので、いまは児童書にもいろいろありますけれども、基本的に子どもたちに、この世は生きるに値するんだということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないというふうに思ってきました。それは今も変わっていません。
――(イタリアの記者)イタリアを舞台にした作品をいろいろお作りですが、イタリアは好きですか? また、半藤さんは83歳でご立派だけど、日野原(重明)先生(101歳)あたりを目標にされたほうが、あと20年、30年生きられるのでその方がいいと思います。それから、ジブリ美術館で館長として監督が働かれると訪問者は喜ぶと思います。
宮崎 (頭をかいて困惑しつつ)僕はイタリアは好きです。まとまってないところも含めて好きです。友人もいるし食べ物はおいしいし、女性はきれいだし。でもちょっとおっかないかなという気もしますが、イタリアは好きです。
半藤さんのところに10年いけばたどり着くのか。その間仕事を続けられたらいいなと思っているだけで、それ以上望むのはちょっと……半藤さんがあと何年頑張ってくださるか分かりませんから、半藤さんは僕より10年前を歩いているので、ずっと歩いていてほしいと思いますけど。
(ジブリ美術館の)館長になって入り口でいらっしゃいませって言うよりは、展示のものがもう10年以上前に描いたものなのでずいぶん色あせてたり描き直さないといけないものがずいぶんありまして、それを僕はやりたいと思っているんです。自分が筆で描いたりペンで描いたりしないといけないものなので、それは是非、時間ができてやりたいってふうに、ずっとやらなければいけないと思ってきたことなのでそれをやりたいんです。
美術館の展示品というのは毎日掃除してきちんとしているはずなのに、いつの間にか色あせていくんですよね。その部屋入った時に全体がくすんで見えるんです。そのくすんで見えるところ1カ所を何かキラキラさせるとそのコーナーがぱっとよみがえって、不思議なことに、たちまちそこに子どもたちが群がるようになるって分かったんです。美術館みたいなものを生き生きさせていくにはずっと手をかけ続けないといけないってことは確かなので、それをできるだけやりたいとは思っています。
――美術館の短編アニメにこれから関わることはあるんでしょうか。
「引退の辞」に書きましたように僕は自由です。やってもやらなくても自由なんで、いまそちらに頭を使うことはしません。前からやりたかったことがあるのでそっちに力を注ごうと。それはアニメーションではありません。
――もともとスタジオジブリは宮崎さん、高畑さんのためのスタジオだった。高畑さんも「次の作品が自分の最後にして最高の作品になるかもしれない」と言っています。宮崎さん、高畑さんが退くなら、ジブリの今度はどうなるのでしょうか。。
鈴木 僕は「かぐや姫の物語」の後の来年の企画に関わっています。僕も実は65歳でありまして、このジジイがいったいどこまで関わるかという問題があると思うんですけどね。今後のジブリの問題っていうのはね、いまジブリにいる人たちの問題でもあると思うんですよ。その人たちがどう考えるのか。そのことによって決まるんだと、僕は思ってます。
宮崎 ジブリの今後については、やっと上の重しがなくなるんだから「こういうものやらせろ」という声が若いスタッフからいろいろ鈴木さんに届くことを僕は願っていますけどね。本当に。それがない時はダメですけどね。鈴木さんが何やっても。
僕らは30のときにも40のときにも、やっていいんだったら何でもやるぞという覚悟でいろんな企画を抱えていましたけど、それを持っているかどうかにかかっていると思います。鈴木さんはそれに門前払いを食わす人ではありません。そういうことで、今後のことは、いろんな人間の意欲や、希望や、能力にかかっているんだと思ってます。
――「これをやってみたかった」長編作品、やらずに終わった企画があれば教えてください。
宮崎 それはほんとに山ほどあるんですけど、やっぱりやってはいけない理由があったからやらなかったことなので、今ここで述べようもない、それほどの形にはなってないものばかりです。あの、辞めると言いながら「こういうことをやったらどうなんだろう」ということはしょっちゅう頭に出たり入ったりしますけど、それは人に語るものではありませんので、ご勘弁ください。
――これからやりたいことをもう少し詳しく教えてください。また、これから長編アニメとは違う形で、世界に向けて発信する予定はあるのでしょうか。
やりたいことがあるんですけど、やれなかったらみっともないから何だか言いません。それから僕は、僕は文化人になりたくないんです。僕は町工場のオヤジでして、それは貫きたいと思っています。だから発信しようとか、あまりそういうことは考えない。文化人ではありません。
――東日本大震災や原発の事故で感じたことが「風立ちぬ」を作るにあたって与えた影響を教えていただければ。また、今後は休息に入られるという認識でいいのでしょうか。
宮崎 「風立ちぬ」の構想は震災や原発の事故によっては影響されていません。それはこの映画を始めるときに初めからあったものです。あの、どこかで話しましたけど、時代に追いつかれて追い抜かれたという感じを、映画を作りながら思いました。
それから休息ということはですね、僕の休息は他人から見ると休息に見えないかもしれないような休息でして、仕事を、好き勝手なことをやってると大変でもそれが休息になるってこともずいぶんあるんで、ただごろっと寝転がっているとかえってくたびれるだけなので。
まぁ夢としては、できないと思いますけど、東山道を歩いて京都まで歩けたらいいなと思ったりするんですけど、途中で行き倒れになる可能性が強い。それはときどき夢見ますけど、たぶん実現不可能だと思います。
――時代に追いつかれ、追い抜かれたとおっしゃったが、それと引退とは関係がありますか。
宮崎 関係ありません。あの、アニメーションの監督というのが何をやっているかというのは、みなさんはよく分からないことだと思うんですけど、アニメーションの監督といってもみんなそれぞれ、仕事のやりかたは違います。僕はアニメーター出身なもので、描かなきゃいけないんです。描かないと表現できないんで。
そうするとどういうことが起こるかといいますとね、めがねを外してですね、こうやって(実際にメガネを外して手元を見ながら描く格好をする)描かないといけないわけです。これを延々とやっていかないといけないんですけど、どんなに体調を整えて節制していても、それを集中していく時間が年々減ってくことは確実なんです。もうそれを実感しています。
例えばポニョのときに比べると、僕は机を離れるのが30分早くなってます。この次はさらに1時間早くなるんだろうと、こう、その物理的なですね、加齢によって発生する問題はどうすることもできませんし、それで苛立っても仕方がないんですね。
だったら違うやり方をすればいいじゃないかという意見があると思いますが、それができるならとっくにやっていますから、できません。といういわけで、僕は僕のやり方で自分の一代を貫くしかないと思いますので、長編アニメーションは無理だという判断をしたんです。
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