4人目の男感動のイルカ(1/2 ページ)

その晩、浩は2人の男と飲んでいた。広告会社出身の宮本と年下の同僚である山下である。彼らと独立について相談していたのだった。

» 2009年11月25日 18時30分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]

前回までのあらすじ

 ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。

 取り込み詐欺に遭い会社をリストラされた主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)。失意の彼の目にとまったのは、引っ越し業者の「バイト募集」チラシ。休みなく働いたのが認められたのか、浩は正社員になった。別れた清美とも復縁し、いよいよ起業を志すのであった――。


 その晩、浩は2人の男と飲んでいた。

 1人は営業力で有名な広告会社A社出身の宮本。すでに40歳を超えていたが、ビジネスについて詳しそうで、頼りになりそうな風貌(ふうぼう)の男である。もう1人は、浩より1つ年下の山崎。浩や宮本と同様、社長に対する不満があるという。

 会社の人間に会わないように、わざわざ遠い池袋の居酒屋で3人は会合していた。すでに生ビールを3杯以上飲んでいる。テーブルの上には、食べさしのさんまの塩焼きや焼き鳥がすでに冷めたくなっていた。

 宮本が切りだした。

 「A社での長い経験から言えば、やっぱりお客をもっと大事にする経営をせんとあかん」

 「同感です」と浩。山崎もうなづいている。

 「うちの会社は、ぜんぜんお客さんを見てへんのや。例えばアンケート1つ取っとらん。お客さんの声が、経営戦略の基本やっちゅうに。いろんな情報を収集して3C分析や5フォース分析をやらんとなあ。それには、まずCS調査や」

 浩は宮本がときどき使う「コンサル用語」がどうも胡散(うさん)臭かったのだが、内容に突っ込むところもなかったので、指摘しないでいた。「山崎君は何が不満なの?」。浩は、山崎に水を向けた。

 「そうですね、社内コミュニケーションかな。社長は社員と全然対話をしようとしないでしょう、やりがいないっすよね」

 「そやな。もっとでっかい会社なら分からんでもないが、このぐらいの大きさの会社で、社長が朝礼もしないなんてありえへんわ」

 「まあ、朝礼はうざいですけどね。でも、もっと飲みに連れていったり、社員旅行みたいなのがあってもいいんじゃないでしょうか」

 浩には、山崎のこの発言にはちょっと違和感があったが、これも基本的なところは一緒だと感じたので、聞き流すことにした。

 要するにこの3人は、会社が顧客の満足をきちっと考えていないこと、社長が社員に向き合っていないこと、この2点が不満なのである。

 「で、具体的には、何があれば始められるんでしょうか?」。浩が宮本に聞く。

 「そうやな。まあ3人とも資金もあまりないから、まずは、中古の4トントラック1台から始めようや。電話さえあれば、事務所なんか最初はなくてもええ。資金はできるだけ広告宣伝費に使お。あとはバイトの子が2人ぐらい雇えれば、それでいけるやろ」

 意外と堅実な考えだなと、浩は思った。3人は、新しい引っ越し屋を始める相談をしていたのである。

 「資本金とかは?」山崎がたずねる。

 「いらん、いらん、そんなもん。最初から会社にする必要なんかない」

 「でも、運送業だから許認可とかいるんじゃないんですか?」

 「何でも屋ってことにしたらええ。引っ越し手伝いますって感じでやるんや。値段ならどこにも負けへんやろ。なんせ経費がほとんどかかってないからな」

 「でも、どうやってお客を探すんですか?」

 「あほ、ぼくを誰やと思ってんねん。元A社の社員やで。広告宣伝ならまかしといてくれや」

 「じゃあ、やりますか」。浩が宣言した。

 「おお、やろう」

 「やりましょう」

 結論としては、年内いっぱいで今の会社をやめて、来年1月から3人で開業することになった。

 家に帰ると、清美はまだ起きていた。

 「浩さん、報告があるんだけど……」

 「ん、何?」

 「あのね、3カ月らしい……」

 「え? 子供ができたの?」

 「うん……」

 「そっかあ、オレが父親になるのかあ」

 「喜んでくれてるの?」

 「もちろんだよ」

 「でも、ほら……」

 「ん?」

 「生活とか……」

 「なんとでもなるよ。それより子供かあ。男、女どっち?」

 「そんなの、まだ分からないよ」

 「そうだな」。浩は、心の底から笑った。

 確かに生活の不安はある。でも、なんだか自分の門出を祝って、神様が宿してくれた子供のような気がする。この子のためにも、事業を成功させなければ……。

 「そういえば、山口くんから結婚祝いのはがきが来てたよ」

 「え? 始から?」

 山口始の手紙には、手短に結婚への祝いの言葉と、一度会いたいとの旨が書いてあった。

 数日後、浩と始は、新宿の居酒屋にいた。

 「猪狩さん。なんだか精悍(せいかん)な感じになりましたね」

 「ああ。肉体労働だからな。それよりお前は顔色があまりよくないな。悩みでもあるのか?」

 「悩みっぱなしですよ」

 「どうした?」

 「猪狩さん、ホントいいタイミングで辞めましたよ。あれから、うちの会社だけでなく、業界全体がダメって感じです」

 「……」

 「もう営業力なんか関係なく、とにかく値引き競争で。だから、会社も営業マンはどんどん切ってく。残った連中はどんどん仕事が増えちゃって……。今日も、なんとか体調が悪いって抜け出してきましたけど、まだまだ働いてる時間ですよ」

 「そうか……」

 「安かろう、悪かろうっていうのはホントの話で、売るのはいいけど、クレームばかり。1日の大半はクレーム対応ですよ。で、お客さんと関係を作るヒマなんかなくて、また値引き競争。悪循環もいいとこです」

 浩にも、始の苦境は容易に想像できた。

 「あいつ……。自殺しました」

 始は、浩の元部下だった男の名前を告げた。2人とも沈黙してしまった。

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