先の小学生は、クラスのなかでも縄跳びが苦手なグループだった。だいたい全体の3分の1くらいいるこのような子どもは、全体練習をするとどうしてもうまく跳べず、縄が引っかかってしまう。この小学生は悔し涙を浮かべながらこんな心中を語ってくれた。
「最初はみんなが『ドンマイ』とか言って励ましてくれたけど、あまりそれが続くと『あ〜あ』というため息や舌打ちが聞こえる。で、そのうちリーダー的な子から『しっかりやれよ!』みたいな罵声に変わっていく。大縄跳びなんて、やりたい人だけでやればいいのに」
これは、なにもこのクラスだけの問題ではない。「全員強制参加」が、子どもたちの社会にハラスメントを引き起こす危険性は以前から指摘されている。例えば、2013年6月に新潟県上越市で行われた「非行防止教室」では「いじめ」をテーマにして、教師や警察官OBによる寸劇が行われた。
「寸劇は、クラス対抗の大縄跳び大会の練習で、うまく跳べない「とよちゃん」を「サポ吉」がいじめ、突き飛ばしてしまうという内容」(朝日新聞 新潟版 2013年6月26日)
「みんな同じ」という画一的な質を追い求める集団内で、「みんなと同じことができない人間」はイラッとされ、最悪排除されてしまうのは容易に想像できよう。正しいのは常に「みんな」なので、そこに合わせられない者は「悪」だからだ。
一方、「みんな同じことができない人間」に強烈な罪悪感が植え付けられることも言うまでもない。自分が同じことをできないことが、「みんな」に多大なる迷惑をかけて、舌打ちや陰口の対象となる。「みんなと違う」のはそれだけで「罪」なのだ。
跳べない子どもは、早くこの苦しみから解放されたいと願う。だから居残り練習でもなんでもする。跳べる子たちから特訓を受ける。それは縄跳びが楽しいからではなく、「みんなと違う」ではなくなった安心感と、「みんな同じ」になって幸福感を得るためだ。
そうやって子どもは成長をしていくんだ、という声が聞こえてきそうだが、そのような「人は辛い経験を乗り越えないと一人前になれない」という「ハラスメント」と「愛」を混同する思想が、5歳女児に「しつけ」名目で虐待する親や、「あいつに一皮むけて欲しい」と反則プレーを命じるアメフト監督を生み出していることを忘れてはならない。
こういうハラスメントを乗り越えて、「よくやった!」「頑張ったね!」と親や教師に褒められた子どもたちが成長して社会に出たときにどんな働き方をするのかは、言わずもがなだろう。
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