――その後はどんな困難がありましたか。
実は鳥山さんが「連載をやめたい」と言い出したことがありました。このころの悟空は3頭身くらいだったのですが、キャラクターを大きくしないと「もう描けない」と言ってきたのです。
漫画の中で激しい戦闘シーンが出てくるようになり、3頭身ではアクションが描けないということでした。だから戦いの最中になると、頭身を微妙に伸ばして描いていたのですが、「もう限界だ」と言われました。これから先の戦いを描くには、頭身を上げて、筋肉も付けて、もっと大人のキャラクターにしないと描けないと言われたのです。
ところが僕はこれに大反対しました(笑)。天下一武道会を設定して、ようやくキャラクターを読者に定着させられたのに、今度はそのキャラクターを捨てたいというのです。どうにも困り果てて編集長に相談すると、「作家がそう言うならいいんじゃないの」という簡単な返事でした(笑)。僕は悟空の頭身が変わる回が掲載された『ジャンプ』の発売日が、とても怖かったのを覚えています。
――鳥嶋さんでも「成功体験を捨てる」ことは怖かったのですね。
積み上げてきたものを捨てなきゃいけないというのは、やっぱり怖かったですね。状況が良くないときに新しいことを試みることはあっても、うまくいっているときに新しいことは、極力やりたくないのですよ。結果的に今振り返ると、変えたことは正解でしたけどね。
――鳥嶋さんは『ドラゴンクエスト』の堀井雄二さんなど外部ライターを起用して多くの成功をされました。なぜ社外の人と積極的に付き合われたのでしょうか?
もともと僕は社内の人間と付き合うのは大嫌いでした。取材費を使って会社の人間とご飯を食べ、社内の人間関係などうわさ話をする。四六時中顔を合わせている人とご飯を食べてもつまらないし、こんなにくだらないことはありません。だから常に社外の人と話をしたいと思っていました。するといろんな話が出てくる。退屈するのがイヤなのです。
『Dr.スランプ』が人気だった当時、『週刊プレイボーイ』に鳥山さんのインタビュー記事を載せたいという話がありました。当時『セブンティーン』のライターだったさくまあきらさん(後に『桃太郎伝説』シリーズの監督を務める)からの話だったのです。そうこうしている間に、当時の副編集長が読者投稿のページを僕に「担当してくれ」と頼んできました。読者投稿は新入社員が担当するページだったので、僕は「やりたくない」と断ったのですが、「編集部の人数が足りないから頼む」と言われ、1つ条件を付けました。
――どんな条件を付けたのですか?
それまで付き合いのあった編集プロダクションをやめて、さくまさんにページを担当させて欲しいという条件です。これが実現したのが「ジャンプ放送局」です。今まで4ページだったものを8ページにし、イラストレーターに土居孝幸さん(後に『桃太郎伝説』などで作画を務める)を起用して、絵が目を引きやすい形にしました。コンセプトは「漫画が描けなくてもハガキ1枚書けばジャンプに載れる」です。
ネタは、漫画やテレビで話題になっているものにツッコミを入れるというものでした。これなら子どもも参加できます。「ジャンプ放送局」は読者アンケートでいきなり10位くらいになり、半分の漫画を抜いてしまったのです。
だけど当時の編集部が「小さいな」と思うのは、アンケートなどの情報が漏れたら大変だから、さくまさんなど外部の人間を「編集部に入れるな」と、同僚や年下の社員が言ってきたことです。結局、会議室を借りて、そこに僕が読者の投稿ハガキを持っていき、作業をすることになりました。そのときつくづく「くだらない」と思いましたね。
つまり何が言いたいかというと、狭いところだけで仕事をしていると、自分たちが見ている世界がそのまま「世界の全て」になってしまうということです。外の空気が入らないから。
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